挨拶も、意見の違いも、当たり前の現実―『コミュニケーションの日本語』

コミュニケーションの日本語 (岩波ジュニア新書)

コミュニケーションの日本語 (岩波ジュニア新書)

 コミュニ〈ュ〉ケーションという言葉のほうが一般的な気がしますので、この記事では〈コミュニュケーション〉と表記します。
 さて、コミュニュケーション力ということがよく言われていますが、自分の体験を振り返ってみても、実体をイメージして話をしていることもあれば、漠然としたイメージで「コミュニュケーション」を捉えている場合もあります。そのなかで、常に具体的に意識しなければならない部分について、やさしく書かれているのがこの本です。
 話の前に表情・挨拶・わかりやすく・きちんと話を聞く・気配り、といったことが、ジュニア向けにやさしく書かれています。
 コミュニュケーションの基本的な部分をわかってストレスなく実行できることは、ひとつひとつの言葉や動作が相手にどう伝わるのか、ということの理解が必要です。それは、決して難しいことではなく、社会で生活するうえでは無意識に行っていることだと思います。ただ、人には疲れているとき、調子が悪い時、機嫌が悪い時などがありますが、それでも人に失礼な行動はしてはならないものです。身体化して無意識に行われていたコミュニュケーション動作がうまくいかないとき、この本に書かれているような、言語化した理論に立ち戻って考えると、適切なコミュニュケーションに復帰できる可能性がより高まると考えました。だから、やさしい内容だからといっておろそかにできないものだと思います。
 なかでも、「5意見の違いを切り抜ける(P.127)」は読み応えがあります。話し方やコミュニュケーションの本はいろいろありますが、意見の違いの場面に力を注いて書かれているものは案外と少ないです。実際には、意見の違いという場面がコミュニュケーションのなかでいちばん困難ですし、よく出会う場面だと思います。意見の違いを言うと、相手は非難されたと感じたり、そこから攻撃を受けたりします。それを避ける方法は、ジュニア向けの本に書かれているように、基本として身につけないといけません。

 そこで、そういうコミュニュケーション上の障害を乗り越えるために、「言いにくいことを言う場合の作戦」を考えてみるというのはどうでしょう。どのように言えばいいか、という「表現」への視点を持ってみるのです。こう考えてみることで、自分の心をコントロールすることもやりやすくなります。(P.134)

 作戦として「〜のではないか」と断定を避けて提案する方法や、「あるいは、こうも見られる」という意見の相対化、などは日常的に行われています。自分の意見が言い難い、と日々感じている人がいたら、意識して活用しましょう。また、絶対に相手を拒否しなければならない場面も、生活のうえでたくさん出会います。

 「とにかくいやだ」は、理由をすっ飛ばして断る表現です。特に、「とにかく」を繰り返して言われると、相手はそれ以上言えません。どうしようもない場合は、このようにして、自分の気持ちをはっきり言うといいでしょう(P.159)

  僕も以前に、職場の先輩からこのことを強く言うように注意されたことがあります。職場全体で、意見を言うことはいいことだという合意が出来ていたのですが。それを逆手に取って「目上の人がこうやれといったら、一切何も言わずにやれ、それが世の中の常識だ」という「ひとつの意見」を全体に広めようとする人もいました。これを受け入れれば、組織のなかで人が意見を言わなくなってしまい、会社の方針に根本的に逆らうことになり、その意見を言う人は非常識で横暴な人物思われてしまいます。

 「私だけがエライ」という思いになっていないかを反省してみることが必要です。「私だけがエライ」と考えてしまうと、「エラくない」ほかの人の心を直接コントロールしようと考えがちです、しかし、そうすることで、かえって、思いは空回りし、心はすれ違うものです。(P.164)

 僕は、空回りしているように見える人にこそ、機会を見つけて話しかけるようにしていました。「自分だけが横暴でない」や「相手はひどいやつだ」などという思いを抱きたくなかったからです。暴力や恫喝については確実に拒否し、専門機関による指導や懲罰を行うことも必要です。それは置いといて、コミュニュケーションによって解決できる場面は案外多いと思います。お互いのことを尊重し合って、いいコミュニュケーションをしていきたいものです。たとえ空回りしていても、僕が信頼する仲間のことは、確かに「エライ」と信じていますから。
 

人びとの意識の表れ―『「しきり」の文化論』

「しきり」の文化論

「しきり」の文化論

 仕切が人間関係(社会的関係)を仕切る装置であるという言い方は、結果的なこととしてある。むしろ、わたしたちの人間関係(社会的関係)がどのように考えられているかが仕切に反映されると言った方がいいかもしれない。どのような仕切であれ、内部と外部という領域の関係を形成する。してみれば、仕切は、ある社会において、またある時代において、人びとが何を自らの内とし、何を外としたかを反映している。(P.4)

 たとえば、住宅地における仕切という装置は、文化の違いを反映し、以下のような状況をつくりだします。

住宅における「しきり」

 欧米の住宅街では、住まいを柵で囲むことが、あまり多くないように思える。それに対して、日本ではどれほど住宅が相互に接近していても塀で囲むことが一般的である。(P.13)
 わたしたちは、どれほど小さな居住空間であろうとも、自らのテリトリーあるいは所有であることを鮮明に示さずにはいられないということなのだろうか。(P.12)
 垣のもともとの機能は、人や動物の侵入を防ぎ、あるいは防風林のように風害などから守るということにあった。農村では、とりわけ、風害や獣害から守る目的があったが、江戸時代の城下町につくられた武家屋敷でもさまざまな生け垣がつくられた。こうした垣は、木や竹によってつくられており、矢来垣、光悦垣など洗練されたデザインを生んでいる。そのほか、日本では神社や墓地など神聖な空間を囲む垣がつくられてきた。玉垣、瑞垣といった名称そのものが、聖なる場所を囲む垣を意味している。(P.70)

 日本の住宅は、伝統的に内部と外部を仕切る装置について、多様なデザインが投入されています。障子、蔀戸、縁側などさまざまな具体例が紹介されています。また、住宅内部において、ふすまや畳などによる仕切の事例が紹介されています。デザイン史は著者の柏木博先生の専門分野でもあり、豊富な事例がわかりやすく列挙されている部分は、分量が少ないながらもさすが読み応えがあります。それは、自然と共生するためのアイデアであったり、組織の序列や各々の立場や役割を明確にするという機能など、生活上での情緒的な安定をもたらす機能を果たして来ました。かつての日本人の「しきり」をデザインする能力には感銘を受けますし、これからも続いていくものだと感じました。
 一方で、欧米の近代では産業革命により労働集約型の工業が発展します。労働者のアパートメントという住宅には、労働のための監視という面を感じます。時代のパラダイム・チェンジのなかでそれが推奨され、日本でも当時の欧米的な住宅の形式が推奨されるようになったのだと感じました。そのうち、工業発展の産物として、ガラスや鉄骨などの建材や施工技術が発展しました。それらの新技術を活用してミース・ファン・デル・ローエが提案したバルセロナ・パビリオンは、労働生産性という観点で考えられたものではなく、人びとに空間の広がりという情緒を感じさせるものとして提案されたものだと思いました。工業技術の発展は高機能の建材などを産み出すなど、人びとに恩恵をもたらすものですが、人びとが過ごす空間において労働監視という観点だけでは、人びとの暮らしを機能させることは不十分であり、情緒的な安定をもたらすためのデザインも常に求められているのだと思います。

オフィスにおける「しきり」

 20世紀の労働集約型産業の写真が出ています。タイプライターを扱う人が数十人もいて、均質な家具が並ぶ無機質な空間の写真が紹介されています。労働生産性を向上させるうえで、ひとつの機能を果たしていたものだとは思うのですが、いまの目で見ると不気味な恐ろしさを感じます。

 今日のオフィスは、70年代にしだいにつくられていったオープン・システムのデザインを基本にしている。しかし、そのインテリアデザインが、情報の流れとコミュニュケーションを中心に考えられているとは言え、コンピュータをはじめとして様々なエレクトロニクス・メディアが入り込んできた今日のオフィスにおいては、はたして、70年代のインテリアデザインがいまだに「軍事的有効性」を持っていると言えるのだろうか。(P.267)

 僕が思うに、コンピュータの操作技術は個人的のスキルであり、職場がコントロールすることが難しいものです。いかに情報がオープンなインテリアをつくろうと、コンピュータのディスプレイは複数の人が監視するには向いていません。したがって、情報はクローズしがちになります。具体的な問題としては、業務の各担当者が何をやっているかがお互いに理解していない状態が出現します。ある人は、コンピュータを使い込んで操作技術に長けており、高い生産性を有しているかもしれません。コンピュータをうまく使えずに画面の前でさぼっている人との違いを、容易に発見できるとは限りません。
 そこで、コミュニュケーションを復活させるための装置が必要になります。それは今後、いわゆるインテリアデザインだけの領域だけでなく、社内SNSクラウドコンピューティングといった装置としても発展するように思います。

わたしたちの領域全般としての「しきり」

 わたしたちは、自らの個人的領域を組織するということがどのようなことかあまり問うことをしないまま、個人的なものを次々に手にいれてきたのかもしれない。その結果、けして「わたしの領域」を強固にするものという意識はないまま、「わたし」をしきり、それぞれがアトム化してしまったということかもしれない。(P.197)

 台所やラジオ・テレビにはじまり、コンピュータや携帯電話にいたるまで、かつて共同で所有されていたものが急速に個人所有に置き換わるという時代の変化がありました。アトム化とは、この影響をうけて個人という存在が周囲から孤立した存在になりがちである、という意味と理解しました。
 実際に目撃していないにもかかわらず、自分は他人から悪口を言われているのではないか、という被害妄想を抱く人もいます。アトム化した、見えない他人についての恐怖が根底にあると思います。オフィスで働く仲間にしても家族にしても、根底には必ず信頼があると僕は信じています。人はこれまでの歴史において、さまざまな「しきり」を考案し活用し、人間観関係づくりや社会関係づくりに役立ててきました。現代において、それを実現する工夫が再度求められていると感じました。

リスクや格差、その解決の前にありのまま―『希望格差社会』

希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く

希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く

 文庫版(link:asin:4480423087)。以下、引用ページ番号は単行本版によります。
 個人的には、冒頭はしがきの一節が気になりました。

 また、別の国民年金未納のフリーター(30代半ば、男性)に同じ質問をしたところ、今度は、「俺たちは、ろくなものを食って育ってないから、どうせ60歳ぐらいで死ぬんだ、だから掛けたって無駄だ」と答えが返ってきた。(P.4)

 これと、全く同じことを言う人に会ったことがあります。その人はフリーターではなくきちんとした会社で働いています。当時その人は30代半ばでした。彼自身が未来に希望を持っていないことは、あらゆる行動から明白でした。給料が減ったことや、周囲の人から信頼されていないのではないかという心配など、いまも様々な不満を抱えて生きているそうです。
 僕は、他人の生き方や考え方に口出しするのはおこがましいとは思っています。ただ、希望を捨ててしまうことの辛さ、怖さは広めたくないし、いろんな縁があった大切な仲間に対して、希望を捨てて欲しくないという想いがあります。
 この本で使われている格差社会という言葉は、いまでは日常的に言われる言葉となっています。「人類学者と実験者 - FDmountwill_millsの日記」で取り上げた、『生きる意味 (岩波新書)』など、格差社会、リスク社会にパラダイム・チェンジしたことについて書いた本はたくさん話題になりました。この辺りの社会問題は、今もメディアでもいろいろと報じられています。いま、そんな社会で少しでも安心していくにはどうしたらいいのでしょうか。
 専門的な仕事の能力を磨いたとしても、その仕事ができる人の数が市場によって限定されていて、一生その仕事で稼いでいける確証はないというのは確かです。しかしながら、能力が人より劣ると思われたくないがゆえに、人の悪口を言ったり恫喝をしたり、そんな行動に出てしまうと、周囲の人から信頼されなくなり、生きていく道が完全に断たれる可能性が高いです。このような行動をする人の気持ちについて述べた箇所があります。

…他人が自分と同じ不幸になることを願う気持ちを「エンビー型」と呼んで、このタイプの嫉妬が近年増えていると述べている(和田*1『幸せになる嫉妬 不幸になる嫉妬』)。目的合理的でない犯罪は、この「エンビー型」嫉妬を原動力にひきおこされる、つまり、「不幸の道連れ」なのである。人生を捨てている人に怖いものはない。死刑になる可能性があろうとも、刑務所に入れられようとも、意に介さないだろう。なぜなら、「努力しても報われない日常生活」こそが、彼らにとっての「獄」だからである。(P.209)

 いまの時代に「報われない努力」はたくさんあるとは思いますが、特に報われる可能性が低いものが「言うことを聞いておとなしく過ごす努力」ではないでしょうか。仕事の上で提案を通したり、難しい案件を複数処理してきた僕には「獄」というほどの状態には至っておりません。僕に対して「不幸の道連れ」を行なおうとする行動があれば、NPOや行政や同僚や人事の専門家と連携して、対処できます。仕事を通じて、様々な業界で活用できそうな能力を磨いたことで、リストラ後の人生設計を描くことは十分に可能です。
 僕がいまおかれている状況は、希望に満ちたものではないかもしれませんが、自分から諦めない限り、希望をもつための選択肢がなくなることはありません。

 私は、人々を不安に陥れ、暗い気分にさせるために、本書を執筆しているわけではない。明るい話を書けば社会が明るくなるなら、社会問題など何もなくなってしまうだろう。先の学生たちの感想にあるように、まず、現実に何が怒ったのか、起こりつつあるかを「ありのままに」見つめ、その現実が生じた原因、というよりも、おおざっぱな流れを私なりに解明したつもりである(P.225)

 という言葉もあります。社会を恨むことや、誰か個人を恨むことに囚われるよりも、まず「ありのまま」を見つめてみる。本の執筆に限らず、人生の希望についても「ありのまま」に見つめることがスタート地点になるような気がします。

*1:追記:精神科医和田秀樹

科学とからみ合うクオリア―『脳と仮想』

脳と仮想

脳と仮想

 文庫版はこちら(link:asin:4101299528)。 引用ページ番号は単行本版によります。
 世の中には「仮想」なものがたくさんあります。「序章 サンタクロースは存在するか(P.7)」とあるような、サンタクロースの存在はたしかに仮想といえます。

 私たちが、「現実」と「仮想」と呼んでいるものたちのそのものの成り立ちについて考えることで、意識を持った不可思議な存在としてこの世界に投げ込まれている自分自身の生について、改めて振り返り、よって自らが生きる糧をとしようと思ったのである。(P.10)

 茂木さんがそう考えたとして、わたしたちはこれをどう扱えばよいのか、という疑問が思い浮かびました。私たちの多くは脳科学者ではないし、人気の著書著書をバブル的に*1たくさん著す有名作家ではないはずです。このような、難しくて理屈っぽいことが、いわゆる普通の人々にとって、生きる糧と成り得るのかという疑問です。
 かつて、科学というものの考え方が出現しました。この本では、科学のことをこう定義しています。

 科学は数値にできる客観的な物質の変化を扱う。クオリアに満ちた主観的な体験は、それを定量的なデータに翻訳して初めて科学の対象となる。その課程で、小林(秀雄)*2が指摘したように、私たちの体験のほとんどの部分は抜け落ちてしまう。主観的な体験そのものを直接扱うことはできないのである。(P.21)

 いまから100年ほど前の時代では、科学に深く関わって生きてきた人は少なかったのだと思います。科学によってもたらされたものは、産業革命による機械技術の発展、航海技術の発展による大航海時代、貿易による新たな経済の流れ、などです。この頃、多くの人は伝統的な農業中心の業務に従事しており、科学技術を直に体験して行為に反映させていたわけではないと思います。たとえば、坂本龍馬のように航海や貿易を扱えるのは、社会全体からみれば特別な人物でした。
 明治時代においても、科学などの学問を修める人というのは少数派で、多数の人はそう生きているわけではありません。したがって、ある種の反感を買う場合もあるのでしょう。

 ずっと、漱石が感情移入しているのは、主人公の「坊っちゃん」だとばかり思っていた。学士様で、『帝国文学』を読み、英文学の知識をひけらかず赤シャツは、どちらかといえば反感を受けるべき「敵方」の人物だと思っていた。
 しかし、そう思って考えて見れば、『坊っちゃん』の登場人物の中で、漱石その人に誰が一番近い客観的プロフィールを持つかと言えば、赤シャツに決まっている。(P.73)

 しかしながら、現在は人口の多くが工業やサービス業に従事していますし、第一次産業である農業や漁業も科学技術の恩恵により運営されています。全ての人が科学の存在に直に影響を受けていて、生活にとって切り離せないものとなっています。
 科学は、定量的なデータのみを扱うものとして、限界をもつものです。ですから、人の想像力・仮想・茂木さんのいう言葉でいう〈クオリア〉的な考えへ、私たちの考え方は変わってきているのではないでしょうか。それは科学批判ではありません。定量化して観察することから得られるものは、いまでも多大な価値を生み出すものです。
 しかしながら、地球規模での環境問題があります。離れた人との間でお金をやりとりする貿易や金融から、グローバルな経済危機が起こり得ます。問題の規模が大きいほど、データを観察するというアプローチでは対応が難しい面があります。必要なデータを集めることそれ自体に労力がかかるからです。
 ある分野の専門家一人がデータを集めたとしても、その範囲の知見だけで全体を解決するソリューションを導けるとは限りません。複数の専門家が知見を持ち寄って、わかりあう場面では、ある種の想像力をもってコミュニュケーションする必要があります。どんな頭のよい人でも、膨大なすべての専門分野について理解をすることは不可能ですから、相手を信頼して仮想的な知見を受け入れることも必要になります。
 ですから、これからの時代には、多くの人がある種の想像力―茂木さんのいう〈クオリア〉―を考えて日々の糧とすることも、十分にあり得ると感じました。それに対して、ある種の反感を持つ人もいるかもしれませんが、それもこれまでの社会を支えてきた立派な考え方であり、ひとつの価値ある体験です。反感に対して更に反発を重ねるのではなく、自ら知見のを深めて影響力を強め、お互いの協力に繋がるようなことをを根気よく続けていきたいと思いました。

*1:余談ですが、書籍バブルについて一連の話題は興味深かったです。|a.一個人|心に残った本||池上彰「伝える力」 http://www.ikkojin.net/blog/blog6/post-2.html |b.ウチダバブルの崩壊 (内田樹の研究室) http://blog.tatsuru.com/2010/08/13_0928.php |c.茂木健一郎 クオリア日記: 当事者として http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2010/08/post-be9f.html |d.書籍バブル論について〜私も当事者の感想を入れます- 勝間和代公式ブログ: 私的なことがらを記録しよう!! http://kazuyomugi.cocolog-nifty.com/private/2010/08/post-f4b3.html |e.「バブル」後記 (内田樹の研究室) http://blog.tatsuru.com/2010/08/14_1032.php

*2:追記

わかるという目標へ疾走する―『「わかる」とはどういうことか』

「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学 (ちくま新書)

「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学 (ちくま新書)

わかることは複雑な動作を伴なう

 わたしたちは日常生活のなかで、人に何かをわかってもらいたい、という場面に遭遇すると思います。また、勉強しなければならないとき、仕事や生活上の行動をすんなりと完了したいとき。自分の扱っている案件に対して何をしなければならないか、わかろうとして行動します。
 たとえば、同僚として一緒に仕事をする人物について、仕事を処理する能力を持ち合わせているかどうか、それがわからなければ安心して仕事に取り組むことができませんので、その人物の能力についてわかろうとします。人がわかろうという欲求は、とても強いものですから、間違った心象に基づく理解としての「わかる」であっても、人は何らかの納得をすると安心するものです。誰かが大声で悪口を言ったり恫喝をしていたとしたら、悪口を言われた側の人はたいへんな不利益を被る可能性があります。

 事実は自分という心がなくても発生し、存在し続ける客観的現象です。心象は心がとらえられる主観的現象です。(P.15)

 この例に限らず、事実と人が抱く想いとはある程度のずれが生じるものです。人が抱く想いについて、この本では「心象」と定義しています。事実と異なる方向に傾きがちな、人の想いについて理解し、正しくわかるための方法について考察しているのが、この本の全体的なテーマだと感じました。事実が「わかる」には時間がかかりますが、人間がもつ能力として確実に進行すると考えます。根拠のない悪口という事実が明らかになったとき、言った人の嘘や不誠実さが明らかになります。ですから、ちょっと不利に思えたとしても、人の悪口は言いたくないといつも考えています。じっさい、僕が人の悪口を言っている場面を見た人は少ないと思います。
 「第2章「わかる」ための手がかり」として、言葉という記号についての理解を挙げています。

 その記号の意味を問う、という自然な心の動きがなくなってしまいます。心から好奇心が失われ、心になまけぐせがつきます。もっとも危険な状態ですね。わかる、の原点は跡にも先にもまず、言葉の正確な意味理解です。ここをおろそかにしてはなりません。(P.58)

 著者の山鳥重さんは医師です。そこで、コレステロールを摂取すると健康に悪いという思い込みについて、人々の理解が医学的見地からかけ離れていることを紹介しています。これも、意味理解が簡単にはいかないという例です。

わかることによる人との信頼

 仕事において、意味理解をできていなくて、うまく処理できるか不安な場合があると思います。たとえば、顧客であったり、上司であったり、誰かが言葉で表現した書類やデータがあって、でもうまく意味理解できない。そのようなときは、わかったふりをして、意味もわからず取り組んだり、ただ部下に振り分けたりするよりも、「わからない」ということをまず認めることが大事ではないでしょうか。
 この本全体を使って語られている通り、「わかる」というプロセスは根本的に複雑なものです。ですから、「わかる」ために立ち止まって考える人を責めたりすることはできません。ましてや、信頼関係のできた同僚であれば、少し時間をかけて立ち止まるぐらいのことで、人を責めるという行動は発生しないと確信できます。そういう確信を持って行動していると、余計なストレスを回避することができたと感じています。適当に仕事を振って、あいつには言ってもわからないと愚痴を言うよりも気持ちがいいです。
 「わかる」というプロセスについて理解をすれば、人間環境をよくする手がかりにすることもできると考えました。他にも、自分が何かを勉強するときの工夫としても役立ちますし、自分が企画を説明したり、製品を設計したりするとき、わかりやすいかたちを考える手がかりにもなります。

 「わかったこと」は行為に移せる(P.203)
 「わかったこと」は応用出来る(P.208)

 「わかったこと」を実際の動作として行うこと、応用して新しい発見をすること。それは気持ちのよい体験です。応用として山鳥重さんが挙げていたのは、電気シェーバーは掃除機を使って掃除するときれいになるということです。広く社会に認められるようなことでなくても、このような発見は嬉しいものです。
 僕は電気シェーバーでなくT字カミソリを使います。以前使っていた二枚刃の古いタイプに比べ、掃除がしにくいです。五枚刃になって使い勝手は大幅に向上しましたが、刃が増えてその隙間に入るゴミが増えました。蛇口から出る水で洗おうとしても、水の流れる速度が弱すぎて隙間のゴミを取り除くことができません。そこで、洗面器に水を貯めて、その中で刃を素早く動かすと、刃の隙間にも水が流れるということを発見しました。
 わかるというプロセスは複雑ですが、そこを乗り越えたとき様々な面白さや人との信頼とが待っています。

実体に触れた情報化をやり続け、壁を超える―『バカの壁』『いちばん大事なこと』

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

 僕は一時期あまり本を読まなかったのですが、これは当時リアルタイムで読んだ数少ない本です。今読んでも、面白いことがいろいろと書いてあります。さっと読み返してみました。

 機能主義というのは、ある目的を果たすために、人間の使い方が、この人はこれ、この人はこれ、という風に適材適所で決まってしまうことになる。当然、「あの人もいい人だから、希望の部署に行かせてあげたい」とか「無能だけれど家族があるからクビに出来ない」といった物言いは通用しません。その機能主義と共同体的な悪平等とがぶつかってしまうのが日本の社会です。(P.105『バカの壁』)

 乱暴にまとめてしまえば『バカの壁』は、人と人とがわかりあうのは難しいことで、上記のような困ったことが発生してしまう。それを乗り越えるために、いっそう力強く考えてゆかねばならないのですよ、という内容です。

 安易に「わかる」、「話せばわかる」、「絶対の真理」があるなどと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのは、すぐです。一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。(P.204『バカの壁』)

 これを読んで、相手のことを考えて人に接するようになりました。これが正しいと自分が思ったところで、話が通じないのでは困ります。おかげで、当時の僕はとても素直に言うことを聞く人、ぐらいに思われていたかもしれません。また、20代の社会人一年生としては適切なふるまいだったと思います。この本は、非常にたくさん売れたそうで、たくさんの人が読んだと思います。ただ、もしかしたら誤読した人が多いのかもしれません。オビの文章やタイトルが刺激的であるがゆえに、人と人とはなかなかわかりあえないから、あきらめてしまおう。言うことを聞かないやつがいたら、無理やりでも言うことを聞かせてしまおう。そう考えた人もいる可能性があります。

いちばん大事なこと ―養老教授の環境論 (集英社新書)

いちばん大事なこと ―養老教授の環境論 (集英社新書)

 養老孟司先生2003年ベストセラー、と思いきや上記のクリック数やブログ登場回数を見ると『バカの壁』と比べてやや人気がないようです。もったいない(僕もいま読んだのですけど)。
 『いちばん大事なこと』は『バカの壁』を補完している内容だと思いました。まず、社会問題として環境ということがあります。それを解決できるのは、どんな個人の専門家なのでしょうか、あるいは企業でしょうか。すばらしい知識や実績のある、専門家や企業が世の中にはたくさんいます。解剖学の専門家、ごみ問題、農業、都市の設計や建設、生物の生態を調べる学者、想像力豊かなアニメ監督、すばらしい人たちです。そんな人たちがいて、環境問題は簡単に解決できるかというと、そうではないと思います。

 環境問題とは、人間が自然をすべて脳に取り込むことができ、コントロールできると考えた結果、起こってきたとみることもできる。それと裏腹に、自然のシステムはとても大きいから、汚染物質を垂れ流しても、「自然に」浄化してくれるだろうという過大な期待もあった。人間は自然を相手にするとき、理解できる部分はコントロールし、理解を超えた部分には目をつぶってきた。一言でいうなら、相手に対する謙虚な姿勢がなかったのである。(P.101-102『いちばん大事なこと』)

 すばらしい知恵をもつ人間がいたとして、自然の存在はそれより大きいということでしょう。養老さんは、ここで古くから日本人に根付いた「手入れ」の気持ちをもって根気よく続けることが大切と説きます。

 手入れとは、まず自然という相手を認めるところからはじまる。先の天道と人道を立てるとは、それぞれを認めることである。どちらか一方という、一元論ではない。朱子学を文字どおり採用するなら、人道が優先してもおかしくはない。江戸の庶民は、それではダメだと知っていた。(P.100『いちばん大事なこと』)

 その思想を理解したうえで、具体的な作業として挙げているのなかのひとつがデータを集めること。

 強調しておきたいのは、データや標本という情報を集める作業は、自然とはどういうものであるかを把握する作業であるということだ。自然は膨大で、非常にディティールに富んでいるから、情報を集める作業も膨大でディティールに富んだものになる。われわれにできるのは、情報を少しづつ収集し、実体と関係づけながら読み解いてゆくことである。そのなかで、自然がしだいに把握できていく。それが、自然というシステムを理解することであり、環境問題に取り組むときの基礎になるのである。(P.173『いちばん大事なこと』)

 どうしたらいいかわからないことは、人生には山のようにある。それを認めたうえで「辛抱強く、努力を続ける根性」が必要なのである。(P.183『いちばん大事なこと』)

 ここまでくると、環境問題に限らず私たちが直面する世の中すべての問題について、適用できるのではないでしょうか。そうした取り組みに自分が参加するためには、壁があって難しいことだと決めつけずに、自分のわからないことについて学んだり、記録をつけて考えてみることが必要になるのだと思います。すばらしい専門家の方々は、すでに実体をもつ仕事として取り組んでいますし、著名な専門家と直に接する立場の人でなくても、本で読むことから学ぶことができます。また、考えを深める方法や整理すること自体についても、参考になる本がいろいろと存在します。こうして学んで身につけていくことが、環境やさまざまな問題を少しづつよい方向へ動かしてゆく力になっていきます。
 本を書いている著名な先生などが解決してくれる、と考えるのではなく、誰もがそう取り組むことが大事なのかもしれません。壁はこうして突破できるし、壁を突破しないと持続可能な未来はやってこないのだと思います。

学者の方によるエッセイかつ、近年のベストセラー―『思考の整理学』

思考の整理学 (ちくま文庫)

思考の整理学 (ちくま文庫)

 これもやや古い本ですが、さいきん書店でベストセラーになっていたことが記憶に残っています。
 ノート術など、近年のビジネス書で多く取り上げられたことに似た内容があります。あくまで学者の方のエッセイという観点で語られていることが面白いです。ですから、このを使ってビジネスの生産性を10倍にするライフハックを紹介しよう、という主張があるわけではありませんが、その観点で読んでも十分に参考になります。
 仕事に取り組んでいると、いろいろな年代の方と接する機会があります。少しの言葉の行き違いから、若い人の考えることはわからないとか、自分はひどく嫌われているのではないかとか、心配してしまう場合があるかもしれません。でも、こうした本から感じられるのは、年代が違っても、手書きのノートやカードだけでなくPCやスマートフォンなどの道具が登場して、パラダイムが変化したとしても、わかりあえる部分が必ずあるということです。
 僕も人の心配ばかりする状況でないですし、アドバイスする立場で考えるなどおこがましいのかもしれません。ただ、やや年配の自信なさげに見える人に会った体験が気にかかるのです。近所で火事があったら、助けたくなるような感覚と似た気持ちです。そんな体験を通じて、自分の考えもより整理できると思っています。