気軽に口をついて出るタイプの言葉―『日本語 表と裏』

日本語 表と裏 (新潮文庫)

日本語 表と裏 (新潮文庫)

 日本語論エッセイとして、長い間読みつがれている本です。繰り返し登場するのは「自分」に関することです。

 「自分はこう思う」というときの主語は、むろん、その意見を発表する「自分」である。だが、「やっぱり」とか「やはり」という間投詞をさしはさむときには、「自分」という主語のほかにもうひとつ、「日本」という、あるいは「世間」という大主語が無意識のうちに予想され、前提されているのだ。(P.22|やっぱり)

 「世間」との関係を考えている人は多いと思いますし、「世間」を扱った書籍は近年でも多くあり、日本語論ひいては日本人論を考えるときに欠かせないものだと思います。そして「自分」は洋の東西を問わず、思想を考えるうえでの重要な言葉です。気軽に読めるエッセイという形式ながら、このキーワードが関わると、深く考えてしまう自分を発見できます。
 日本語の単語ひとつでもいろいろなことが考えられることに感銘を受けました。また、自分の発する言葉について考えが足りているかどうか、改めて気になりました。日本語や日本人の性質は、なかなか変わらないものですが、「世間」のパラダイムは大きく変わるからです。「やっぱり」を使って、相手が深いに思うほど非常識に思われる発言をしていないかどうか、少々気をつけないといけません。他にも「どうも」や「よろしく」など、気軽に口をついて出る言葉について、それぞれ面白いエッセイが展開されています。
 近年の本と比べて、面白く気軽に読めるこの本の文体が気にかかりました。「自分」や「世間」について、正面から取り上げた書籍は90年〜00年にかけて、多いと思います。「自分探し」という言葉は多くのメディアで取り上げられました。ですから、「自分」をエッセイに取り上げるとしたらもっとストレートに重い感じで表現されるのではないか、という予測をしていましたが、それが裏切られました。
 20世紀が右肩上がりの経済成長の時代だとして、当時は少し気楽なムードがあって、自分について考えることも世間について考えることも、「面白さ」や「気軽な文体」というエッセンスを加えないと人気の本として受け入れられない。そんな時代のムードがあったのではないか、と考えてしまいます。かといって、この本に登場する内容が浅いというわけではなく、鋭い視点も込められています。深く考えることについて、何も一から十まで難しい顔をして表現しないといけないわけではない、という視点がひとつ持てたと思います。

どんな人生にも言語論的転回が訪れるとして―『未来形の読書術』

未来形の読書術 (ちくまプリマー新書)

未来形の読書術 (ちくまプリマー新書)

 未来形の読書とは、いままで知らなかったものを理解するための読書です。過去形の読書とは、知っていることを再確認するためのものであり、私たちは、過去形の読書で傾きがちとの指摘がありました。

…「どうしてこんな当たり前のことしか書かれていない本が百万部も売れるのだろう」と疑問に思わせられるものがある。それは、こういう心理によるものにちがいない。「読めばわかる」と思うからその本を買うという心理は、いくぶんかはこういう要素を含んでいるのだろう。これは、自己確認のための読書、過去形の読書と呼べそうだ。(P.26)

 「過去形の読書」も読書のひとつの側面であると認めた上で、未来形の読書について明らかにしてゆきます。 

…まだ言葉にならない、そしてあなた自身も知らない未来形の自分が待っている。「この世の中で自分の生き方を見つける」のが「自分探し」だと思っている人がいたら、甘い甘い。「自分探し」とは言葉からこぼれ落ちた世界の果てまで「自分」を追いかけていく試みなのだ。(P.44)

 たとえば、芥川龍之介羅生門』は「下人が盗人になる物語」と読むこともできるし「下人が生きる勇気を得る物語」と読むこともできることが紹介されていました。盗人になることは悪いことですし、勇気を得ることは善いことなので、表面的にはまるで相容れないように思えます。しかし、暇を出されて失業中の身である「下人」が無気力な状態から、何かしらの生きる方法を見つけたことは、この時代の状況を考えると、一概に悪とも言い切れません。ひとつのテクストを読むとき、複数の自分が発見できます。盗みは完全に悪いことだと思っている人が、後者の読み方に気づくとしたら、新しい発見となります。このような例がいろいろと紹介されています。
 複数の自分を意識することは、生きる上で切実に必要だと考えます。パラダイム・チェンジということがあるからです。

…いまは環境問題のキャッチフレイズは「地球にやさしく」だろうか。そうなると、僕が少年時代に習った「煙モクモク=加工貿易=正しい日本」というパラダイムはもうまちがいになってしまったのである。(P.133)

 関連して僕が思いついたことを挙げます。最近の刑事ドラマや大河ドラマの主人公は、上司や権力者にもの申す場面が多いです。アサーティブに自己主張することが「よいこと」とされる世の中を反映しているからでしょう。でも、ほんの数十年前では、部下は「はいボス(殿)わかりました。」という場面のほうが多かったのではないでしょうか。古いドラマを見ると、爆発するような無茶な命令を、やけにあっさりと受け入れる場面があって、一種のギャグに見えることがあります*1。一方で、当時の人にとって「事件は現場で起こっているんだ」とボスに向かって言う刑事は、口答えをする単に生意気なやつだと思われるでしょう。
 このようなパラダイム・チェンジに気づかない人には、どのような人生が待ち受けているのでしょうか。職場での従順で素直な態度が認められて部長に出世したけれど、パラダイム・チェンジに敏感な頭の良い人や若い人からはひどく憎まれている、というようなことが起こり得るかもしれません。
 この本は、人生などについては少ししか触れていないのですが、もっと強調してもよかったのではないかと思います。パラダイムに鈍感すぎて、孤独になってしまう人は案外多いからです。歳をとるほど、自分の経験が正しいと思い込みがちでしょうし、地位の高い年長者にはっきり物申すことは、どんな時代でもある程度の勇気は必要なため、指摘を受けて気づくチャンスが少なくなります。生意気なことを言うようですが、その意味では年配の人ほど切実ですし、それは読書の楽しみというレベルの話だけではありません。誰かの考えを変形しようというつもりはないのですが、人それぞれの人生経験はかけがえのないものだから、少しでも見方が広がったほうがいいなと思っています。
 この本はちくまプリマー新書なので、出版サイドはおそらく若い読者を想定しています。しかしながら、年配の人の境遇について考えることもできます。僕の読み方は、未来形の読書とは少し違うかもしれませんが、本にはいろいろな読み方ができることは実感しました。

*1:ブログを書き始めて1年がすぎました 未来への日記を振り返る - FDmountwill_millsの日記 http://d.hatena.ne.jp/FDmountwill_mills/20100311/1268315525

庭と街の発想―『虫眼とアニ眼』

虫眼とアニ眼 (新潮文庫)

虫眼とアニ眼 (新潮文庫)

 宮崎駿さんによる、最初のページのイラストがいい感じ。庭があって、植物があって、優しい印象の柵があって、屋根付きの駐車場がある。そんな街の絵です。これをそのままの形で実現することは難しいとしても、実現可能でつくってみたくなるところは多いです。自然を感じさせる地形や植物、人々の生活などは子供にとって未知のわくわくする世界です。魔女が出てくるかもしれないし、トトロのような生き物がいるかもしれない。そもそも、生き物の世界は謎に満ちていて、いつまでも飽きないものです。
 「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」などの話題が出ていて、もともとの出版年月を確認すると平成14年とのことです。時代は少し隔たっているのですが、現代の都市や生活をめぐる議論について、最近のコンパクトシティや高齢社会や教育問題などと、十分に繋がっている部分を感じます。
 宮崎さんにしても養老さんにしても、この分野の専門家というわけではありませんが、独特で強力な力をもつ「眼」で、本質的なところを見抜いていたのでしょう。実行するには、金融や経済の論理や、安全性などの論理として、専門家が必要です。どんなに頭のいい鋭い人であっても、世の中の全部に対して専門的に精通することはできなくても、何かひとつ極めて見ることはできます。それを尊重し合ったうえで、何かの話し合いをはじめると発展的な未来が見えてくると感じました。

事業者サイドの役員と金融機関サイドの役員と実務担当者―『ザ・ゴール 2 ― 思考プロセス』

ザ・ゴール 2 ― 思考プロセス

ザ・ゴール 2 ― 思考プロセス

 以前にも取り上げましたが、再度取り上げてみます*1。金融機関サイドの役員と、事業者サイドの役員の対立からはじまるストーリーのビジネス小説です。
 事業者サイドから見て、自分が育てた事業には愛着があり、リストラや会社分割を行うときには断腸の思いがするのでしょう。事業者サイドの人間が自ら望んで、リストラや縮小を受け入れることは、ありえません。これは、一般論として納得がいく話だと思います。
 しかしながら、事業者サイドだけのアイデアだと、今までの事業形態をベースにアイデアをコツコツ積み上げる、という方法だけで満足しやすいのかもしれません。金融機関サイドの見方はシビアで、ときにはそれを中断させようとします。冷たい仕打ちと思えますが、彼らもまた金融機関として責務を果たしているだけであり、事業者をやっつけることが目的ではありません。世の中の状況に応じて、会社を解体したり、多数の従業員をリストラしようとしたりする考えも、ある一面では妥当です。また、金融サイドの提案をきっかけに、より発展的な事業方針を見い出せる場合もあります。
 両者は、お互いに知らない知識と経験があるので、そこをベースに連携することが重要でした。たとえば事業者サイドから見れば、業界の各社が開発力を強化しているかどうか、自社の人事や人材育成が機能しているかどうか、政府の方針やグローバルな経済の見通しなどと照らし合わせて事業に発展の可能性があるかどうか、などの理解です。それをベースにした話し合いがはじめられないのであれば、大きな利益獲得のチャンスを逃すことになり、事業者にとって不幸であるばかりでなく、長期的に見れば金融サイドにとっても不幸です。この本のストーリーでは、主人公の役員だけでなく、その部下の実務担当者のはたらきも見事でした。立場は異なっても、それぞれに重要な役割があります。
 各々の立場から得た知識やアイデアを投げかけて、思考プロセスのキャッチボールを繰り返すことで、より大きな問題解決に至ることができます。やや出来すぎのストーリーですが、改めて勇気が湧く内容だと思いました。個人的には、これをきれいごとだと決めつけたくはないですね。

*1:カフェボッサ - 感想文|TOCの思考プロセスとハッピーエンドの提案 http://www.bossabooks.jp/cafe/review.html?id=4152&asin=4478420416

夏の成長と未知なるものを描いた物語たち

 夏という場面は、子供の成長を描いた物語において、いい背景となります。

かけがえのない人同士が共有する体験

サマータイム (新潮文庫)

サマータイム (新潮文庫)

 11歳と12歳の姉と弟、および近所の13歳を描いた小説です。3人の子供のうちひとりが一人称の語り手となって語る短編4つという内容です。4つの短編はそれぞれ夏・春・秋・冬の季節に対応しており、それぞれの短編で3人の子供の年齢は微妙に異なっています。
 3人の子供はそれぞれ違った性格のため、考えていることが他の相手に伝わりにくい場面があります。また、後半2編では大人の登場人物が重要な役割を果たすのですが、大人の登場人物が考えることも、子供たちには理解ができないものです。そもそも、人はお互いに考えていることを全て理解することはできないものです。年代の違いによって体験して考えることにも変化が出てきます。こうしたすれ違いやその克服を経て、3人が体験したことは、それぞれがかけがえのない思い出となるのでしょう。

固有の人たちを俯瞰する視点

楽隊のうさぎ (新潮文庫)

楽隊のうさぎ (新潮文庫)

 こちらは、語りが三人称の物語。中学のブラスバンド部を描いた小説で、登場人物が多く、俯瞰した形で物語が描き出されています。主人公の少年克久は、最初は弱々しい少年でしたが、多くの体験を通して成長していきます。主人公をいじめる少年が登場しているのですが、いじめてばかにする側だった少年はいつのまにか、克久に一目おくようになります。いじめっ子の登場人物は、後半であまり明るい日常を送っていないように思えました。人をばかにして平気でいられる人物とは案外そういうものではないでしょうか。主人公のように、自分が取り組んでいることを大切に扱う人はより大きく成長できるはずなので、いじめっ子も成長のきっかけをどこかで掴んで欲しいと思います。

ツンデレ女子

くちぶえ番長 (新潮文庫)

くちぶえ番長 (新潮文庫)

 マコトという女の子と過ごした思い出を、主人公ツヨシの回想として語る形式です。
 マコトはクラスで番長になりたいと宣言し、それから様々な出来事がおこります。登場人物たちは、わかりやすくキャラクター化された印象です。たとえば、マコトは普段はツンツンとしたところがありましたが、バレンタインデーにこんな事をいいます。

「ツヨシのおばさんに教えてもらったの、手作りなんだからね、すっごく時間がかかって大変だったからねっ」
マコトは怒ったように言って、「じゃあねっ」と外に駆け出して、止めてあった一輪車に乗って―コケた。(P.215-216)

 ツンデレですねw
 そんなかわいい登場人物たちは、それぞれが個性的なしぐさや話し方を持っていて、それぞれの世界の見方があります。人がもつ個性を大切に扱うことは、大人として人の尊厳を尊重することにも繋がる部分があるのではないでしょうか。じっさいの世の中にも、いろんな性格の人がいます、同じ時間をすごした仲間のなかで、それぞれかけがえのない思い出になっていくのでしょう。

未知なる世界を知る魔女―おばあちゃん

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

 主人公は中学生の少女で、一時期おばあちゃんの家で生活するようになるという物語です。これは映画にもなって有名ですね。
 大人の人生経験からくる言葉は、子供の成長にとって影響をおよぼすものです。大人の場合でも、父母の年代と祖父母の年代とでは、それぞれ違った世界が見えてきます。死んだ人の思い出も、人の心に残って影響を及ぼしています。
 西の魔女が見る世界は、単調なようでいて活き活きとしたものに感じられます。規則正しい生活など、人として見習いたくなるものがあります。歳を重ねたとき、若い人からそう思われるようになりたいと思いました。

未知な世界の扉があるとして

つめたいよるに (新潮文庫)

つめたいよるに (新潮文庫)

 短めの短編21編。怪談めいたストーリーが多いですが、不気味や怖さというより、単に不思議で冷たい感じで、読み終えると世の中自体が少し違って見えるように感じました。普通の日常的生活を描いた短編も多いのですが、未知なる世界との出会いが短編集の全体を貫くテーマになっているようです。
 たとえば「僕はジャングルに住みたい」という短編は、卒業を控えた小学生がふとジャングルに住みたいと夢想するお話です。日本に生活する人にとって、ジャングルというのは未知の世界です。しかし冷静に考えてみると、小学生が中学生になること自体が未知なる世界への移行です。人は未知なる世界があると心が揺れ動くもので、小学生にとっては中学校もジャングルも似たようなものかもしれません。

ややガラの悪い主人公が、大人に成長する物語

黄色い目の魚 (新潮文庫)

黄色い目の魚 (新潮文庫)

 主人公は高校生の男女です。二人が交代しながら、それぞれ一人称で語る形式。
 物語は全体的に予想のつかない方向に進んでいきます。最初のほうでは、二人ともやや問題児な一面があり、元気はつらつとしたタイプではありません。前半において、二人の思考を綴る言葉はガラの悪い印象ですが、後半で別人のように思慮深くなります。
 著者:佐藤多佳子さんの解説によると、もともとは大学時代に書いていた小説を10年後に完成させたそうです。前半と後半で、文体ががらりと変化するのは著者の文体が10年という時間を経たことがそのまま反映されているのかもしれません。これは主人公が別人のように成長してゆく物語にとって、いい演出として作用したように思います。
 人が別人のように変わるという体験は、それが進行している最中には自分ではわからないもので、後で振り返ったときにはじめて意識できると思います。それをわざとらしくない形で表現しているのが、この小説の特徴です。

未知な世界と関わる

 大人になると、自分は何でも知っているというふうに思い込みがちかもしれません。移り変わりの早い世の中は、大人にとっても未知なものです。その状況から逃げていてばかりではより困難な状況に追い込まれていきますが、勇気を出せなくなる気持ちもわかります。しかしながら、人は大人になるまでに、勇気をもって未知な世界へ飛び込んだ体験が何かしらあるはずです。そんな気持ちを忘れたくないために、多くの小説において成長や未知な世界が描かれるのだと感じました。

自分と世界をはかる定規―『14歳からの哲学』

14歳からの哲学 考えるための教科書

14歳からの哲学 考えるための教科書

…正しく計ることができないのだから、世の中の寸法は狂いっぱなしだし、建物ひとつ建ちやしない。
 これと同じことだ。自分が思っているのだから正しいと思っている人は、自分ひとりだけの定規、自分ひとりだけの目盛りを使って、すべてが正しく図れると思っているようなものだ。(P.16)

 こういう話をする人は多いのですが、背景にある本質を誤読して不正に利用しようとする場合があるのではないでしょうか。誰かを否定して従わせたいたいとき、「あなたは独りよがりなことを考えている」と指摘する場合があります。あるいは「誰々がこう言っているからそうしなければならない」と言う人がいます。前者は、単に支配欲を満たすための行動という意味において間違っています。快楽のみを求めることは、考えることを放棄しているからです。後者は、考えることについての放棄そのものです。それらは、その行動をしている人自身を不幸な方向へ導くでしょう。
 互いの欲求の方向性は合っているので、支配したい人と服従したい人とは、表面上は仲良くやっているように見えます。しかし、それは一時的な関係に終わるでしょう。考えないということは、間違いに気づかないことに繋がります。間違ったことをする人が支配して、考えずに服従する人がそれを実行する場面があるとしたら、不幸な結果は明白です。

 他人の存在は、自分が自分であると気づくためのきっかけにすぎない。自分の存在は他人の存在に少しも依ってはいないのだから、その意味で、自分というのは絶対的な存在なんだ。(P.66)

 いろいろな哲学にもとづいて考えると、自分の存在についてそう考えることができます。もちろん、日常生活でそれを言葉どおりに誰かに向かって主張すると、本当のひとりよがりになる場合もあるでしょう。そこに少し釘を刺す言葉もありました。

 君が今の君のままで、「僕は絶対だ!」なんて威張って言って、お母さんに張り倒されても知らないからね。(P.67)

 ごもっとも。ここでいう「君」とは、本のタイトルどおり14歳を想定していますので、親の世話になっている場合が多いはずです。親の立場からみれば単に生意気な子供の発言です。
 それでは、何か不満や苛立ちを抱えていて、社会や他人を変えたいと思ったときどうすればよいか。自分自身をよい方向に変えていくことが、本質的に必要な第一歩だと思いました。

 自分とは世界なのだと、「他人」の章で気がついた、だから、自分を愛するということがそのまま世界を愛するということなんだ。だからもしも君が世のため人のために何かをしたいと願うのなら、一番最初にしなければならないことは何か、もうわかるはずだ。(P.104)

 哲学の歴史のなかでは「自分」という問題が長らく扱われてきました。この命題には様々な考えがあって難しいものですが、そもそもなぜ「自分」がこれほど多く扱われるのでしょうか。「自分」について考えることが社会のなかでうまく生きてための第一歩である、ということはひとつの正しい考えだからだと思います。

自分本位では耐えられない―『脳と気持ちの整理術』『脳が冴える15の習慣』

脳と気持ちの整理術 意欲・実行・解決力を高める (生活人新書)

脳と気持ちの整理術 意欲・実行・解決力を高める (生活人新書)

 私は、外来を訪れる患者さんと接していて、むしろ人並み以上に仕事や勉強がよくでき、向上心も高い人ほど、そういう悪い流れにもはまりやすいと感じています。(『脳と気持ちの整理術』P.5)

 これは確かにありますし、自分自身もそういう状態になったことがあります。僕が目撃して記録してきたことは、ほんの一部の事例にすぎないので、世の中全般にそれがあてはまるのか確信は持っていませんでしたが、多数の患者と接する立場の人による意見を読むことで、納得できました。

 私たちは、ある程度の年齢・地位になると、自分本位に生き様と思えばいくらでもそうできるようになりますが、そういう生き方は、脳にとって決して楽ではありません。
 エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』という本の中に、「自由を担うには重すぎる」という意味の言葉が出てきますが、これはまさに至言です。人間の脳は、選択肢が無限にあるような状態に耐えられず、思考停止に向かっていくものだと思います。(『脳と気持ちの整理術』P.54)

 だから「誰かのため」になることを考えることが大事と述べられています。権限が拡大したとき、一方的に人を従わせようとする自分本位で感情的な行動は、一時的には快感を得られるとしても、その欲望に終わりが見いだせずに、無限の苦しみの発端になることもあるのでしょう。そこで、例えば仲間を教育して導くなど、目標をはっきりさせるとすれば、思いを表現することやアイデアを実行することができて好循環になっていくのだと考えました。
 誰かのためになることを意識して、整理術をより意識的に実行していこうと改めて思いました。いま自分の周りのものや考えがあまり整理されてない状況があり、少々ストレスになっているからです。

 その状況がまったく変わっていかないとき、業界に関わっている人たちは、問題に興味をもてなくなっていくはずです。煩わしいとは思いながらも、その問題を「変わらない風景」のようにみなすようになってゆく。
 ところが、その業界に外部から優秀な人が入ってきて、「これは問題だ」と気づき、少しだけ状況を変えてみせたりする。そうすると、その変化に反応して、みんなの脳が問題に注目するようになる。(『脳と気持ちの整理術』P.90)

 状況がなかなか変わらないとき、少しでも変化があると楽になります。僕はいままで、ビジネス向けの整理術的な本は何冊か読んできましたので、この本の内容も類書で見たものが多かったです。こうした本を何冊も読むことに疑問を抱いたこともありましたが、医者にしてもビジネスマンにしても学者にしてもそれぞれ違った視点があります。今回この本を読みたくなった理由は、そんな少しの変化を求めていたからです。これを機会にいい方向へ繋げていきたいです。

脳が冴える15の習慣 記憶・集中・思考力を高める (生活人新書)

脳が冴える15の習慣 記憶・集中・思考力を高める (生活人新書)

 内容は似ていますが、『脳と気持ちの整理術』に比べると、シンプルでコンパクトな「習慣」を連ねる形式が目立ちます。自分が実行すべきことの手がかりすらわからない場合は、こちらのほうが参考になるかもしれません。『脳と気持ちの整理術』の方は、ひとつひとつ思索を掘り下げている点が微妙な差異です。
 二冊の表現や形式を比べて考えると、いまの自分はシンプルに伝えて実行してみることがうまくできていない気がしました。状況がなかなか好転しないとき、小さいながらも変化を起こすためには、シンプルに伝わる形でアイデアを表現してみることも有効ではないか、という気づきがありました。