自分と世界をはかる定規―『14歳からの哲学』

14歳からの哲学 考えるための教科書

14歳からの哲学 考えるための教科書

…正しく計ることができないのだから、世の中の寸法は狂いっぱなしだし、建物ひとつ建ちやしない。
 これと同じことだ。自分が思っているのだから正しいと思っている人は、自分ひとりだけの定規、自分ひとりだけの目盛りを使って、すべてが正しく図れると思っているようなものだ。(P.16)

 こういう話をする人は多いのですが、背景にある本質を誤読して不正に利用しようとする場合があるのではないでしょうか。誰かを否定して従わせたいたいとき、「あなたは独りよがりなことを考えている」と指摘する場合があります。あるいは「誰々がこう言っているからそうしなければならない」と言う人がいます。前者は、単に支配欲を満たすための行動という意味において間違っています。快楽のみを求めることは、考えることを放棄しているからです。後者は、考えることについての放棄そのものです。それらは、その行動をしている人自身を不幸な方向へ導くでしょう。
 互いの欲求の方向性は合っているので、支配したい人と服従したい人とは、表面上は仲良くやっているように見えます。しかし、それは一時的な関係に終わるでしょう。考えないということは、間違いに気づかないことに繋がります。間違ったことをする人が支配して、考えずに服従する人がそれを実行する場面があるとしたら、不幸な結果は明白です。

 他人の存在は、自分が自分であると気づくためのきっかけにすぎない。自分の存在は他人の存在に少しも依ってはいないのだから、その意味で、自分というのは絶対的な存在なんだ。(P.66)

 いろいろな哲学にもとづいて考えると、自分の存在についてそう考えることができます。もちろん、日常生活でそれを言葉どおりに誰かに向かって主張すると、本当のひとりよがりになる場合もあるでしょう。そこに少し釘を刺す言葉もありました。

 君が今の君のままで、「僕は絶対だ!」なんて威張って言って、お母さんに張り倒されても知らないからね。(P.67)

 ごもっとも。ここでいう「君」とは、本のタイトルどおり14歳を想定していますので、親の世話になっている場合が多いはずです。親の立場からみれば単に生意気な子供の発言です。
 それでは、何か不満や苛立ちを抱えていて、社会や他人を変えたいと思ったときどうすればよいか。自分自身をよい方向に変えていくことが、本質的に必要な第一歩だと思いました。

 自分とは世界なのだと、「他人」の章で気がついた、だから、自分を愛するということがそのまま世界を愛するということなんだ。だからもしも君が世のため人のために何かをしたいと願うのなら、一番最初にしなければならないことは何か、もうわかるはずだ。(P.104)

 哲学の歴史のなかでは「自分」という問題が長らく扱われてきました。この命題には様々な考えがあって難しいものですが、そもそもなぜ「自分」がこれほど多く扱われるのでしょうか。「自分」について考えることが社会のなかでうまく生きてための第一歩である、ということはひとつの正しい考えだからだと思います。