どんな人生にも言語論的転回が訪れるとして―『未来形の読書術』

未来形の読書術 (ちくまプリマー新書)

未来形の読書術 (ちくまプリマー新書)

 未来形の読書とは、いままで知らなかったものを理解するための読書です。過去形の読書とは、知っていることを再確認するためのものであり、私たちは、過去形の読書で傾きがちとの指摘がありました。

…「どうしてこんな当たり前のことしか書かれていない本が百万部も売れるのだろう」と疑問に思わせられるものがある。それは、こういう心理によるものにちがいない。「読めばわかる」と思うからその本を買うという心理は、いくぶんかはこういう要素を含んでいるのだろう。これは、自己確認のための読書、過去形の読書と呼べそうだ。(P.26)

 「過去形の読書」も読書のひとつの側面であると認めた上で、未来形の読書について明らかにしてゆきます。 

…まだ言葉にならない、そしてあなた自身も知らない未来形の自分が待っている。「この世の中で自分の生き方を見つける」のが「自分探し」だと思っている人がいたら、甘い甘い。「自分探し」とは言葉からこぼれ落ちた世界の果てまで「自分」を追いかけていく試みなのだ。(P.44)

 たとえば、芥川龍之介羅生門』は「下人が盗人になる物語」と読むこともできるし「下人が生きる勇気を得る物語」と読むこともできることが紹介されていました。盗人になることは悪いことですし、勇気を得ることは善いことなので、表面的にはまるで相容れないように思えます。しかし、暇を出されて失業中の身である「下人」が無気力な状態から、何かしらの生きる方法を見つけたことは、この時代の状況を考えると、一概に悪とも言い切れません。ひとつのテクストを読むとき、複数の自分が発見できます。盗みは完全に悪いことだと思っている人が、後者の読み方に気づくとしたら、新しい発見となります。このような例がいろいろと紹介されています。
 複数の自分を意識することは、生きる上で切実に必要だと考えます。パラダイム・チェンジということがあるからです。

…いまは環境問題のキャッチフレイズは「地球にやさしく」だろうか。そうなると、僕が少年時代に習った「煙モクモク=加工貿易=正しい日本」というパラダイムはもうまちがいになってしまったのである。(P.133)

 関連して僕が思いついたことを挙げます。最近の刑事ドラマや大河ドラマの主人公は、上司や権力者にもの申す場面が多いです。アサーティブに自己主張することが「よいこと」とされる世の中を反映しているからでしょう。でも、ほんの数十年前では、部下は「はいボス(殿)わかりました。」という場面のほうが多かったのではないでしょうか。古いドラマを見ると、爆発するような無茶な命令を、やけにあっさりと受け入れる場面があって、一種のギャグに見えることがあります*1。一方で、当時の人にとって「事件は現場で起こっているんだ」とボスに向かって言う刑事は、口答えをする単に生意気なやつだと思われるでしょう。
 このようなパラダイム・チェンジに気づかない人には、どのような人生が待ち受けているのでしょうか。職場での従順で素直な態度が認められて部長に出世したけれど、パラダイム・チェンジに敏感な頭の良い人や若い人からはひどく憎まれている、というようなことが起こり得るかもしれません。
 この本は、人生などについては少ししか触れていないのですが、もっと強調してもよかったのではないかと思います。パラダイムに鈍感すぎて、孤独になってしまう人は案外多いからです。歳をとるほど、自分の経験が正しいと思い込みがちでしょうし、地位の高い年長者にはっきり物申すことは、どんな時代でもある程度の勇気は必要なため、指摘を受けて気づくチャンスが少なくなります。生意気なことを言うようですが、その意味では年配の人ほど切実ですし、それは読書の楽しみというレベルの話だけではありません。誰かの考えを変形しようというつもりはないのですが、人それぞれの人生経験はかけがえのないものだから、少しでも見方が広がったほうがいいなと思っています。
 この本はちくまプリマー新書なので、出版サイドはおそらく若い読者を想定しています。しかしながら、年配の人の境遇について考えることもできます。僕の読み方は、未来形の読書とは少し違うかもしれませんが、本にはいろいろな読み方ができることは実感しました。

*1:ブログを書き始めて1年がすぎました 未来への日記を振り返る - FDmountwill_millsの日記 http://d.hatena.ne.jp/FDmountwill_mills/20100311/1268315525