関与しながら地球で暮らす生物たち―『サルが食いかけでエサを捨てる理由』

 以下のような冒頭からはじまり、様々な生物の面白い生態を描き出すエッセイ集です。

 つまり地球上にいる生命体の種族は皆、精密機械の部品のように、直接的、間接的に関連し合って成立していると思ってください。(P.12)

 地球という星は、生きている星なんです。その星の上で、たくさんの生命体がお互いに関与しながら生きていて、環境のバランスがとれるようになっています。
 なぜ鳥が空を飛んでいるかというと、地面が満杯で自分たちの居場所がないから。なぜクジラが海を泳いているかというと、やっぱり地面よりも、自分たちにはそっちのほうが楽だと思ったから。(P.13)

 こうして様々な生物が共存していることについて、自然の仕組みは偉大だなと思います。動物たちについて考えつつ、人間社会のことを思うと、何かに悩んで自分の居場所について疑問を感じたとしても、心強く感じます。もし自分が他の人とずれているように感じられても、広い目で見ればお互いがつながっていると感じるからです。
 人だけに備わった能力の例として挙げられていたのが二点。脳による思考を活かして将来の予測をすることがひとつ。加えて、一部の天才が何かを発明・発見して、その産業の技術を受け継いで、より多くの仲間が生きていけるようになることが挙げられていました。だから、自分が「必要だからいる」という実感を得るために、予測や発明という人ならではの行為を成功させるという道があるのだと思いました。
 それに加えて僕が思ったことは、たとえ自分が天才的な発明・発見をする人物でなくても、「必要だからいる」という存在を自覚することは可能ということです。逆に、自分を天才のように認めて欲しいがために他の人を貶めて攻撃するなど、見通しを無視して利己的な行動―人間らしくないふるまい―をするとしたら、自分が安心することから遠ざかってしまうのではないでしょうか。
 サルが食いかけでエサを捨てる行動の背景には、それによって自然の営みがうまく循環していく仕組みがあります。自分の力で果実を得ることのできないサル以外の動物たちにとっては、エサのおこぼれを得ることができます。果実をつける樹木の側から見れば、より多くの動物に果実を食べてもらうことによって、樹木の生育範囲を広めることができます。一見何気ない行動ですし、サルはそれを自覚的にやっているわけではないですが、生物の営みとして確かに有用な行動です。
 自然界で起こっていることを緻密に観察していくと、必ずうまいつながりが出来ているようです。人間の個としても、自分の行動について緻密に観察してみれば、何か安心出来る出来事が発見できるのだと思います。また、他人の有用な点をみつけて褒めるためにも、観察の視点が有効と思います。
 ですから、自然の営みを観察してみることや、自然の営みを知ってその背景にあるもの思いやってみることは、人の心を豊かにするのだと感じました。著者の野村潤一郎さんによると、「こころ」的なものは人間だけでなく、動物や植物ひいては地球全体にもあるのではないかと述べられています。そんなイメージがあると、人や自然界に対して、優しく謙虚な気持ちになれると感じました。

苦難から身に刻まれた共生の思想―『リンゴが教えてくれたこと』

リンゴが教えてくれたこと 日経プレミアシリーズ

リンゴが教えてくれたこと 日経プレミアシリーズ

 現代社会は早いスピードで移り変わり、人生きる拠り所を見失いがちになるのかもしれません。苦難としか言いようのない体験をする人もいます。著者の木村秋則さんも多くの苦難を体験しました。そして木村さんがたどり着いたのは、自然や社会の環境に一方的に従うのではなく、自ら感じて考えたことを実行し、互いに共生できる生き方にも思えました。
 無農薬のリンゴ栽培には、長年数多くの苦難がありました。栽培が上手くいかず、ついに「死んでお詫びをしよう(P.64)」というところまで追い詰められるのですが、死ぬために入った山奥にて放置されていたリンゴの木を発見し、山奥の土のふかふかした感触からひらめきを得て工夫を重ね、終には「奇跡のリンゴ」を成功させます。
 木村さんが目標とするリンゴ栽培を実現するためには、それまで常識と信じていた方法を捨てねばなりませんでした。信じてきた方法を捨てる前に、死の覚悟をする瞬間があったことに意味があったと思われます。人は、環境が変わったり上司など周りの人から何か言われたりしたとしても、考えや行動を変えていくのは本当に難しいもあると思います。そんなとき、人の心の底では何かがうごめいているのだと思いますが、目の前の事実や正しい意見から目を逸らしてしまうのかもしれません。どんなに強い人でも、そんな状態になってしまうことがあり得るのです。死の覚悟をもったときに新しい方法が木村さんにひらめいたのことは偶然ではなく、死の覚悟によってそれまでのやり方に固執する気持ちが薄らいだゆえの転機だったのかもしれません。
 リンゴ栽培を成功させた木村さんは、全国や海外にその農業のやり方を教育する活動をしています。人が自らのやり方を変えづらいものだとして、そのなかで人を動かしていくためにできることとは何でしょうか。木村さんには長年の探求によって、様々な実験結果や栽培の成果があり、はっきり述べることができる理論や思想などがあります。そんな探求の記録は、木村さんが農業を行う上で必要だった以上に、他人を説得して動かしてゆくために必要だったのだと思われます。

 地球の中では人間も一生物にすぎません。木も動物も花も虫たちも皆兄弟です。互いに生き物として自然の中で共生しているのです。
 人間はもっと謙虚になるべきだと思います。人間は自然の支配者ではなく、自然の中に人間がいるよと考えるべきです。(P.5)

 自然の環境と調和して、持続可能なよい未来をつくるために、この共生の気持ちが有効にはたらいているのだと思います。木村さんは名刺などにハマキムシのイラストを書いているそうです。これは病虫害を引き起こして木村さんのリンゴに多大な被害をもたらしていた虫で、本来ならば憎むべき存在なのですが、

実にさまざまなことを教えてくれたこの虫のことを忘れないよう、また彼らに感謝の気持ちを表すために、私は自分の名刺や出荷用の段ボール箱に私が書いたハマキムシのイラスト(五十一頁)を載せています。(P.52)

としています。病虫害の被害については、近隣の農家からも非難されたそうです。しかしながら、それらの人たちを憎むようなことはしていないように感じました。だから、農作物におこっていることや、人々が考えていることを素直に感じ取って、成果に結び付けられるのだと思います。
 最後のほうに、木村さんが地域社会の問題や、地球環境の問題について触れた箇所があります。人を憎んだりしない人だからこそ、これだけ多くのことを考えて実行できるのだと思いました。

今週のお題「2010夏の課題図書」『新版ごみから地球を考える』

新版 ごみから地球を考える (岩波ジュニア新書)

新版 ごみから地球を考える (岩波ジュニア新書)

目次
はじめに
プロローグ―宇宙ごみ戦争
第1章 ごみから地球環境を考える
第2章 ごみから社会・経済を考える
第3章 ごみ行政で地球を救えるか
第4章 リサイクル産業で地球を救えるか
第5章 「ごみゼロ」の思想
第6章 地球を救う政治と技術
エピローグ―ベジタリアンの逆襲

 ごみについてわかりやすく書かれた本で、ジュニア向けながら内容は濃いです。この本はタイトル通り古くから人気があった本を新版にしたものなで、真新しいことをたくさん紹介した本ではなく、ある程度知られていることを丁寧に説明しています。ジュニア向けには社会問題そのものの理解が得られるのでしょうけど、大人として注目したいのが「考える」ということについての丁寧さです。
 「考える」という書き言葉は、日常的によく使われるものです。自分が「考える」という言葉を、単に文末につけただけで、実は「考える」という行動を停止していないか、というのがちょっと気になりました。この本では「考える」ということがとても丁寧に扱われています。たとえば、物理の基本について踏まえていることを、以下のように説明しています。

…説明に使う自然法則は「質量保存の法則」「万有引力の法則」「熱力学の第二法則(エントロピー増大則)(P.22)
…必要なエネルギーを取り出せば同時に必ず「いらないエネルギー」が発生し、これを系の外に捨てなければ必要なエネルギーを取り出せない、というものです。ここでいらないエネルギー(これは「エントロピー」という量で定義されています)をいらない物質(「ごみ」)、必要な「エネルギー」を「必要なもの(物質)」と置き換えると、「必要なものを手に入れようとすると必ずごみが出る。ごみを出さないで必要なものを手に入れることはできない」ということになります。(P.24)

 物理だけでなく、推理の方法として帰納法が使われている点や、データを紹介して定量的な評価を行ったり、見やすい図解を用いてプレゼンテーションしたりしている点など、実に丁寧につくられています。そして、政治や産業というものがどのように行われているかを示し、そのなかで人が納得できる思想を導き、政治や産業に対して現実的な提案を導いています。日常的な業務のプレゼンではあまり表面に出ないようなことまでわかるので、「考える」ことの奥深さについて感銘を受けました。
 理工系専門書ではなくジュニア向け新書なので、登場する数学にしても四則演算で理解できるようなレベルとなっており、ひとつひとつの内容は簡単に理解できます。ものを「考える」ということは高度な専門知識や経験のみによって導かれるわけではありません。いま自分に知識や経験がないから新しいことが考えられない、と思い込んで立ち止まってしまうような人がいるならば、勇気を得られるかもしれません。
 大きな問題を解決する成果とは、そんな個人の「考える」という行為によって産み出されます。

…これまでなかったものを形にしてきたのです。それはだれがやったのでしょうか。会社という組織でしょうか。そうではありません。○○さんと特定できる個人の頭のなかにひらめいた、気づき、思いつきがスタートです。個人と個人の相互作用として組織があるのです。(P.204)

 ですから、組織において個人をごみのように扱うとしたら、形ある成果を出せなくなって、組織は存在意義を失うのだと考えます。組織として達成する目的を守り個人の生きる尊厳を守るため、それを阻害する問題が目の前にあるとしたら、無視せずに向き合いたいものです。それが社会と人同士に対する義理だと考えます。

BLOOM CAFE動画とBloomStyle Vol.2 の紹介

夢が現実化する4時起きと図解術のひみつ http://www.bloom-cafe.com/archives/672
BloomStyle Vol.2 朝活ってなぜするの? http://www.bloom-cafe.com/archives/736

 BloomStyleについては今回ぼくは記事参加できませんでしたけど、相変わらず内容は気になります。それぞれ興味深い内容でした。

 朝早い時間に起きて過ごすと、気持ちがいいものですね。BloomStyle記事では人それぞれの工夫がありました。時間を決めて、いい生活サイクルを目指す方法として朝活を取り入れている人が多いです。
 ただ、人それぞれの体質や生活サイクルがありますので、こうしなければならない、というものは特にないのだと感じました。僕もここ最近、夜にやることが増えてきたので朝活はあまり実行できていません。

 朝に時間をとって考えることは思考の整理のために有効と思いますし、それは周りの人に貢献することに有効だと考えます。貢献とは、仕事を通して価値あるものを社会に出していくとか、友人や家族と話すこと、仲間とのイベント的なものに参加するなど、さまざまな場面が考えられます。

 思考を整理するためには一定の「かた」にはめることが必要だと感じました。整理のための「かた」として図解術やマインドマップがクローズアップされています。規則正しい生活も一種の「かた」です。規則正しい生活を行うと、自分の生活や思考を客観的に見ることができて、気分が落ち着いてくると感じています。
 自分の行動について客観的に見ることができないと、その場の感情が先走って判断を誤ったり、人に責任を転嫁してつらく当たってしまったりすることもあり得ます。感情だけで行動していても、その場限りの達成感は一応得られると思いますが、考えを整理して気分の落ち着きを得て行動したうえでの達成感は、それ以上のものだと感じています。いい刺激になりました。

成熟と成長-『新・都市論TOKYO』

新・都市論TOKYO (集英社新書 426B)

新・都市論TOKYO (集英社新書 426B)

 成熟期の都市には、どんな都市がふさわしいのか、そもそも成熟期の都市に都市計画がいるのか、いらないのか。本書のポイントはそう要約できる。(P.9)

 建築・都市建設だけでなく、今日では多くの産業がそういう状況と思われます。この本の内容は、そのポイントに対する回答を性急に示すものというよりも、東京という都市の様々な状況をひとつひとつ丁寧に確認して濃密な考察とともに記録したものと思いました。

 今日、われわれの都市に何が可能なのか、どんな処方箋がありえるのか。本書はその途をさぐるための苦い試行錯誤の第一歩である。(P.26)

 この本には都市に対する考察が濃密に記述されており、新書ながら読み応えのある内容なのですが、それだけの内容をもってなお〈さぐるため〉の〈第一歩〉の段階にすぎず、回答をはっきり示すという段階にはほど遠いように思います。でも、僕としてはこの文面を、冒頭のポイント−問いかけ−に対する回答を今後の実務において示すという決意、と受け止めます。
 その回答を示すことは建設産業に関わる人たち全員が果たすべき使命だと考えます。

今日の巨大開発

 序章では、20世紀までの都市計画がどのように行われたかについて解説されます。短いながらも的確でわかりやすい内容です。それを踏まえて隈研吾氏が問題視するのは、成熟した都市―大幅な成長が見込めない―における巨大な開発です。

 広大な敷地の買収には厖大なコストがかかり、環境負荷を補償するために、さらなる資金の投入が必要となる。その高額な開発コストを回収するために、行政当局に規制緩和を求め、その場所に通常許される床面積を上回る高密度、高層の建築物が建てられる。敷地の巨大化に応じ、プロジェクト全体の立体的規模は、それに累乗した形で巨大化せざるを得ない。それは、悪夢のような循環である。(P.20)

 〈資金〉は〈投資家〉から集められます。投資家によって以下の状況が出現します。

 投資家がブランドに対して期待するのはその建築の建つ場所、そこに伝わる文化に対するクリエイティブなレスポンスではなく、ブランドが確立してきた「お約束」通りのスタイルの、機械的な反復である。ディベロッパーは、彼らにスケッチ代を払って名前を借りようとする。なにしろブランドの反復が求められているのだから、スケッチとサインがあればそれで十分なのである。(P.22)

 人口減や高齢社会の到来などがあり、成熟した社会においては大きな成長が望めないため、成長のみを重視したビジョンを描くことはできません。望ましいビジョンがあるとすれば、建築家も含めた専門家同士が、計画の初期段階で問題意識を共有できるようにすることではないでしょうか。人がいままでの行動を変えることは、難しい面もあります。ですからその一歩を踏み出し、実際の成果としてアウトプットするなかで、隈研吾氏はより望ましいかたちを探求して思索していたのだと思います。
 実際にどんな都市計画がよいのか、その答えは簡単には出ないようです。専門家同士が顔をつきあわせて話し合ったとしても、それぞれの業務の立場から様々な意見が出て、簡単には意見が集約しないのかもしれません。だから、誰もが共有できる問題点を認識することがまず一歩として、そこから時間をかけて探求し続けることにより、社会にとって望ましい計画を実現できると信じたいです。 

空気を少し変えると、不満や退屈が変化する−『教育力』

教育力 (岩波新書)

教育力 (岩波新書)

 経験を積んだ人にとって、自分の体験を伝えたいという思いが発生することは多いと思います。人が人として生きる上で、技術や知識や文化などを贈与し継承することは、生きる上で必要なことと考えます。

 「人に何かを教えたい」という気持ちを「教育欲」と呼ぶとするなら、これは人間の欲望のなかでも大きなものだと私は考えている。一種の支配欲にも少し似ている。変形欲(自分の力で人を変形させたい)という、何かやみくもな欲望を持つ人もいる。そういう人のなかには、教師という仕事に就いていたとしても、自分自身が学ぶことをとうにやめてしまっている人も少なくない。それは教壇に立っている人を見れば、ほとんど即座にわかるものだ。(P.24)

 僕は教壇に立っているわけではありませんが、職場で仕事のやり方を教えて伝えるということはよくやっていました。PCの操作などは、工夫によって何倍もの作業がはやく進行したりするので、それを示してあげるとたいへん喜んでくれました。また、デザインやマーケティングの専門知識を活用することは仕事の進行のうえで大切であり、悩みながら理解して仕事の反映させたときの喜びはよく覚えています。しかしながら、その場で喜ぶだけで終わってしまい、工夫しつづけようという雰囲気を生み出すことは難しい場合もありました。

 「別にそんなの、どうでもいいじゃん」という空気が、経済のバブル時代の状況と連動して生まれてしまったのだ。(P.44)

 だから、まず「教養がないということは恥ずかしいことなんだよ」というような、そういう大きな空気をつくっていくことが必要である。(P.45)

 バブルのような時代であれば、仕事の業績などが発展していくなかで、学ばなくても成果があるように錯覚してしまうのかもしれません。そんな空気を変えるためには、自ら学んでいくことに注力することが大切でした。社会が自然と成長するわけではない現代では、自分の頭にある「世の中の常識」と呼ぶものだけで、社会に通用することは実行できません。

 私の考える教育の基本原理は、「あこがれにあこがれる関係づくり」だ。新しい世界にあこがれ、燃えて学んでいる人は、魅力を放っている。その人の「あこがれ力」に触発された人は、自分も学びたくなる。教育の基本は、学び合い刺激し合う友情の関係だ。(まえがき)

 だから、このような魅力を出せる人でいたいと思っています。単なる欲望に支配されてやみくもに人を変形させるのではなく、自ら学び続けることが教える関係を築く基礎だと理解しました。自分のことをわかってくれないという不満を抱いる人もいます。僕も常にうまく学んでいるわけではないので、気持ちもわかります。不満をもつ人たちも自ら学ぶということをやってみればいいと思います。つまらない口出しだけしかできない人や、退屈なのか居眠りをしてしまうような人がいるなかであっても、真面目に学ぶ姿勢と保ち続けていると空気が変わっていくように感じたことがあります。
 人が人の考えることを伝えようとして、お互いにじっくり取り組む関係が少しづつ広がっていけば、不満や退屈が少しづつ変化するものだと思いました。

個人の頭のなかにある「世の中の常識」に水を差す−『先生はえらい』

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

…価値のわかりきったものを交換するというのは、「交渉を断ち切りたい」という意思表示なわけです。完全な等価交換というのは、交換の無意味性、あるいは交換の拒絶を意味します。(P.78)

…コミュニュケーションにおいては、意志の疎通が簡単に成就しないように、いろいろと仕掛けがしてあるのではないでしょうか?そうすれば、コミュニュケーションがどんどん延長されますから。(P.103)

 「わからない」という言葉を多く使う人がいたことを思い出しました。その人が「わからない」というと目がどんどん輝いてきて、会話が白熱するという体験をしたことがあります。その人の「わからない」を単純に拒絶のサインだと考える人もいましたが、話し合いがうまくいっていませんでした。言葉の表面だけを見て、コミュニュケーションの遮断をひきおこし、必要な理解が得られないとしたら面白くありません。ですから、相手のことをよく見て話をするべきなのだと、僕は考えました。
 「わからない」を単純に拒絶のサインとして考える側の人は、「これが世の中の常識だ」「みんながそう言っている」というふうな、決め付ける発言が多いです。「みんな」が言っていることを実際に調べてみると、違った意見がたくさん見つかるという体験が多かったです。人の考え方や口ぐせなどを変えてしまおうとは思わないのですが、「みんながそう言っている」と決めつけたがる人がいた場合にどう対応したらよいか。そういう人には「わかりました」とはっきり答えてあげると、急に不安そうな表情になることが多かったです。決めつける人は、本当はあまり考えていないので不安を抱えているのです。そんな体験から、このコミュニュケーション論に僕は賛成です。
 こういう考えは、様々なコミュニュケーションの場面で考えられることだと思いました。なぜなら、誰かが何かを教えるという行為は、職場においても地域のコミュニティにおいても、組織だったまとまりを維持するなかで、頻繁に登場するものだからです。