成熟と成長-『新・都市論TOKYO』

新・都市論TOKYO (集英社新書 426B)

新・都市論TOKYO (集英社新書 426B)

 成熟期の都市には、どんな都市がふさわしいのか、そもそも成熟期の都市に都市計画がいるのか、いらないのか。本書のポイントはそう要約できる。(P.9)

 建築・都市建設だけでなく、今日では多くの産業がそういう状況と思われます。この本の内容は、そのポイントに対する回答を性急に示すものというよりも、東京という都市の様々な状況をひとつひとつ丁寧に確認して濃密な考察とともに記録したものと思いました。

 今日、われわれの都市に何が可能なのか、どんな処方箋がありえるのか。本書はその途をさぐるための苦い試行錯誤の第一歩である。(P.26)

 この本には都市に対する考察が濃密に記述されており、新書ながら読み応えのある内容なのですが、それだけの内容をもってなお〈さぐるため〉の〈第一歩〉の段階にすぎず、回答をはっきり示すという段階にはほど遠いように思います。でも、僕としてはこの文面を、冒頭のポイント−問いかけ−に対する回答を今後の実務において示すという決意、と受け止めます。
 その回答を示すことは建設産業に関わる人たち全員が果たすべき使命だと考えます。

今日の巨大開発

 序章では、20世紀までの都市計画がどのように行われたかについて解説されます。短いながらも的確でわかりやすい内容です。それを踏まえて隈研吾氏が問題視するのは、成熟した都市―大幅な成長が見込めない―における巨大な開発です。

 広大な敷地の買収には厖大なコストがかかり、環境負荷を補償するために、さらなる資金の投入が必要となる。その高額な開発コストを回収するために、行政当局に規制緩和を求め、その場所に通常許される床面積を上回る高密度、高層の建築物が建てられる。敷地の巨大化に応じ、プロジェクト全体の立体的規模は、それに累乗した形で巨大化せざるを得ない。それは、悪夢のような循環である。(P.20)

 〈資金〉は〈投資家〉から集められます。投資家によって以下の状況が出現します。

 投資家がブランドに対して期待するのはその建築の建つ場所、そこに伝わる文化に対するクリエイティブなレスポンスではなく、ブランドが確立してきた「お約束」通りのスタイルの、機械的な反復である。ディベロッパーは、彼らにスケッチ代を払って名前を借りようとする。なにしろブランドの反復が求められているのだから、スケッチとサインがあればそれで十分なのである。(P.22)

 人口減や高齢社会の到来などがあり、成熟した社会においては大きな成長が望めないため、成長のみを重視したビジョンを描くことはできません。望ましいビジョンがあるとすれば、建築家も含めた専門家同士が、計画の初期段階で問題意識を共有できるようにすることではないでしょうか。人がいままでの行動を変えることは、難しい面もあります。ですからその一歩を踏み出し、実際の成果としてアウトプットするなかで、隈研吾氏はより望ましいかたちを探求して思索していたのだと思います。
 実際にどんな都市計画がよいのか、その答えは簡単には出ないようです。専門家同士が顔をつきあわせて話し合ったとしても、それぞれの業務の立場から様々な意見が出て、簡単には意見が集約しないのかもしれません。だから、誰もが共有できる問題点を認識することがまず一歩として、そこから時間をかけて探求し続けることにより、社会にとって望ましい計画を実現できると信じたいです。