挨拶も、意見の違いも、当たり前の現実―『コミュニケーションの日本語』

コミュニケーションの日本語 (岩波ジュニア新書)

コミュニケーションの日本語 (岩波ジュニア新書)

 コミュニ〈ュ〉ケーションという言葉のほうが一般的な気がしますので、この記事では〈コミュニュケーション〉と表記します。
 さて、コミュニュケーション力ということがよく言われていますが、自分の体験を振り返ってみても、実体をイメージして話をしていることもあれば、漠然としたイメージで「コミュニュケーション」を捉えている場合もあります。そのなかで、常に具体的に意識しなければならない部分について、やさしく書かれているのがこの本です。
 話の前に表情・挨拶・わかりやすく・きちんと話を聞く・気配り、といったことが、ジュニア向けにやさしく書かれています。
 コミュニュケーションの基本的な部分をわかってストレスなく実行できることは、ひとつひとつの言葉や動作が相手にどう伝わるのか、ということの理解が必要です。それは、決して難しいことではなく、社会で生活するうえでは無意識に行っていることだと思います。ただ、人には疲れているとき、調子が悪い時、機嫌が悪い時などがありますが、それでも人に失礼な行動はしてはならないものです。身体化して無意識に行われていたコミュニュケーション動作がうまくいかないとき、この本に書かれているような、言語化した理論に立ち戻って考えると、適切なコミュニュケーションに復帰できる可能性がより高まると考えました。だから、やさしい内容だからといっておろそかにできないものだと思います。
 なかでも、「5意見の違いを切り抜ける(P.127)」は読み応えがあります。話し方やコミュニュケーションの本はいろいろありますが、意見の違いの場面に力を注いて書かれているものは案外と少ないです。実際には、意見の違いという場面がコミュニュケーションのなかでいちばん困難ですし、よく出会う場面だと思います。意見の違いを言うと、相手は非難されたと感じたり、そこから攻撃を受けたりします。それを避ける方法は、ジュニア向けの本に書かれているように、基本として身につけないといけません。

 そこで、そういうコミュニュケーション上の障害を乗り越えるために、「言いにくいことを言う場合の作戦」を考えてみるというのはどうでしょう。どのように言えばいいか、という「表現」への視点を持ってみるのです。こう考えてみることで、自分の心をコントロールすることもやりやすくなります。(P.134)

 作戦として「〜のではないか」と断定を避けて提案する方法や、「あるいは、こうも見られる」という意見の相対化、などは日常的に行われています。自分の意見が言い難い、と日々感じている人がいたら、意識して活用しましょう。また、絶対に相手を拒否しなければならない場面も、生活のうえでたくさん出会います。

 「とにかくいやだ」は、理由をすっ飛ばして断る表現です。特に、「とにかく」を繰り返して言われると、相手はそれ以上言えません。どうしようもない場合は、このようにして、自分の気持ちをはっきり言うといいでしょう(P.159)

  僕も以前に、職場の先輩からこのことを強く言うように注意されたことがあります。職場全体で、意見を言うことはいいことだという合意が出来ていたのですが。それを逆手に取って「目上の人がこうやれといったら、一切何も言わずにやれ、それが世の中の常識だ」という「ひとつの意見」を全体に広めようとする人もいました。これを受け入れれば、組織のなかで人が意見を言わなくなってしまい、会社の方針に根本的に逆らうことになり、その意見を言う人は非常識で横暴な人物思われてしまいます。

 「私だけがエライ」という思いになっていないかを反省してみることが必要です。「私だけがエライ」と考えてしまうと、「エラくない」ほかの人の心を直接コントロールしようと考えがちです、しかし、そうすることで、かえって、思いは空回りし、心はすれ違うものです。(P.164)

 僕は、空回りしているように見える人にこそ、機会を見つけて話しかけるようにしていました。「自分だけが横暴でない」や「相手はひどいやつだ」などという思いを抱きたくなかったからです。暴力や恫喝については確実に拒否し、専門機関による指導や懲罰を行うことも必要です。それは置いといて、コミュニュケーションによって解決できる場面は案外多いと思います。お互いのことを尊重し合って、いいコミュニュケーションをしていきたいものです。たとえ空回りしていても、僕が信頼する仲間のことは、確かに「エライ」と信じていますから。