考察:ハーバード白熱教室 ディスカッションガイド 第6回「動機と結果 どちらが大切?」より

http://www.nhk.or.jp/harvard/lecture/guide_100509.html」より。

1.カントは、生まれつき親切な人は、習慣から行動しているから、実際には道徳的ではないと考える。カントによれば、習慣は便利なものだが、道徳的ではあり得ない。そう考えると、あなたが道徳的な人であったとしても、それは子供の頃に受けた教育による種の条件付けであり、実際には道徳的ではないことになる。これをどう考えるのか?

 外部からの習慣づけにより道徳的な行動をする人は、外部からの習慣づけによって悪質になる可能性があると考えます。もし、周りの人が道徳的でない行動をするような場面にいたとすれば、その人が道徳的でない行動をするようになる可能性は高いのではないでしょうか。
 周りの環境からの同調圧力は、強い力をもつと思います。たとえば、子供の頃に人を侮辱する発言をしないと条件づけられた人であっても、人を侮辱する発言をする人が多い環境に長年いたとしたら、いつの間にか人を侮辱するようになることがあり得ます。ガラの悪い人たちと一緒に長年一緒にいたら、もともと道徳的な行動をしていた人でも柄の悪い行動をすることが有り得ます。調査不足の資料を提出して、これはしっかり調べた結果だと言い張るようなこともあります。
 そのような人も、決して根っから悪い人でないと考えます。もともと道徳的な行動をする素質を持っているのだから、自らの動機を意識することによって、より確かな道徳的行動をできるようになるのではないでしょうか。

2.チャーリーはいつもいたずらをしようとしていて、フランクはいつもそれを止める子供であるとしよう。結果として、チャーリーは正しいことをすることになるが、実際はいつも間違ったことをしたいのだ。チャーリーは道徳的と言えるのか?

 チャーリーはフランクの他律によって行動しているので、道徳的でないと考えます。

3.すべての人が尊厳と無限大の価値を持っていたら、私たちは生と死についてどのように選択すればいいのか?私たちはボストンの道路を修理するか、トレドの子供たちにワクチンを接種するかを選ばなければならないとする。道路を修理すれば、ボストンでの車の事故による子供の死亡は10人減少する。ワクチンを接種すれば、トレドの20人の子供が助かるとする。もし誰もが無限大の価値を持っているとすれば、どのように選ぶのだろうか?功利主義者ならどうするか?カントならどうする?

 功利主義的に最大限の成果(ここでは人の生命の安全)を追求するならば、トレドの20人の子供を救うという結論が出るかもしれません。アメリカのボストンで子供を救うために道路修理をすることは、ある程度長期に使用できるものが形に残ることなので、長期的に考えると功利主義的な成果と評価できるかもしれません。また先進国における経済活動に貢献するという側面もあるため、その成果をトレドの子供に還元することでワクチンを摂取できる可能性ができるかもしれません。功利主義では答えが出せません。評価基準の設定が不十分だからです。
 カント哲学としては、最も適切な道路建設計画、医療計画を考えよう、ということになるかもしれません。自分自身で与えた法則によって行動することを目指すので、法則を設定すること―評価基準の適切さについて吟味する−というところから始まるのではないでしょうか。

4.カントによれば、道徳性のゴールは自由である。しかし、カントにとって、自由とは単に望むことを何でもすることではない。それは自分自身の理性に従って生きることである。洗脳、広告、渇望、欲望、これらに拘束された時、あなたは自由ではなくなる。カントは、自由について正しいのだろうか?

 殺人をすることは絶対にいいことだと、理性的に信じる人がいたとしたら、どうなるのだろうという疑問が残ります。サンドル先生は番組の講義で、それが巡り巡って自分が殺されてしまうということに繋がるから、という理由を挙げられました。また、それは仮言命法的であるためカント哲学に反することなのですが、巡り巡ってという普遍化を考えることは一種のテストであって自立的な理性が別にあればそれは矛盾するものではない、という説明をされました。しかしながら、殺人がいいことだと信じることが理性的に可能と考える余地が完全にないと言い切れる論拠にはなっていない気がします。
 カント哲学は功利主義を批判し、その弱点を克服してより発展させたものなのだと考えます。カント哲学は功利主義を踏み台にすることによって成立しているため、カント哲学の一節だけを取り出してみると、正しいかどうか確信がもてなくなります。自分自身の理性と他律的な傾向性とを、現実の生活のなかで判断するのは難しいです。
 今日、グローバルにコミュニュケーションできる環境です。カントの生きた時代と違い、現代は交通の発展や通信の発展がありました。違う環境で育った人にであって、自分と違う考えを持つ人に出逢う可能性がより大きいと考えます。道徳をなすためには、法則について、考えて修正する余地が常にあることを意識する、それが自由にとって必要なことではないかと思います。