建築家不要論ではなく、建築家以外必要論

はじめに

 建築の設計について、僕は実務経験として半年と少し程度。まだ学ぶことがたくさんある状態です。なので、今の僕が考えられることは製造業の実務経験とメディアに出てくる建築の話、それらをベースにしたもの程度。ベテランの人などから見て的外れなものになっている可能性もありますが、普通の実務経験者や学生やジャーナリストとはちょっと違った目線からの意見になる可能性もあると、勝手ながら思ってます。突っ込み大歓迎。以下、本論。

成長社会と成熟社会

 何度か建築家について書いてきたなかで、一環して思うのは成長社会と成熟社会の違い。乱暴に言いかたをすれば、成長社会においては「誰か偉い人が決めたことを、素直に言うことを聞いて実行する」という業務の流れでもいろいろなことがうまく行きました。とりあえずダムつくっておこう、空港つくっておこう、オリンピックやって競技場つくっておこう。そう言うだけで、皆が納得した。その計画に何か弱点があっても、人口増や経済成長がそれをカバーしてくれるだろう。そういうことがまかり通る時代。現在それを見直す必要が出てきたのだと考えます。
 補足しておきますと、これは昔の人が不適切な仕事をしてきたと言いたいわけではありません。当時の社会状況のなか、それは有効に機能していたのだと思います。また、様々な昔の人の業績のもと今の私たちの状況が成り立っているのであり、それについては感謝と尊敬の意を表します。

成長社会の建築

 誰か一人の人間(たとえば建築家)が上に立っていろいろなことをコントロールしていくという業務形態があるとして、その長所は一人の人間に権限が集中するため機敏な意思決定ができること、およびその決定内容に一貫したポリシーが自然と反映されることです。短所は、一人の人間が発揮できる能力には限界があって、それが見過ごされて弱点になる可能性があること。
 例えば、ルイス・カーンという極めて有能な意匠設計能力もつ存在がいて、それが上に君臨して建築の設計を行うと、それが反映された建物を次々につくることができた。ルイス・カーンを扱った映画によれば*1、彼は営業が下手で経営が下手だったそうです。ついでに言うと愛人を3人もつ女たらしです。その弱点は設計事務所の業務を崩壊させる事態には至りませんでした。
 有能な意匠設計という才能ひとつによって、弱点をキャンセルできる時代。それが成長社会の業務という印象を受けます。当時においては、とりあえず建物できればよい、それが有能な意匠設計者による美しいものであればなおよい。そういうシンプルな要求があってそれにただ応えていればよい。そういう感じだったのではないかと想像します。

成熟社会の建築

 多数の人間が協力しながら何かを作り上げていくという業務形態があるとして、その長所はそれぞれの人がもつ有能な分野を反映させることができること。たとえば営業が得意な人がいればその能力を発揮する。利害関係の細かな調整が必要であれば、そのマネジメントをできる人が能力を発揮する。そうして、複雑な問題を解決することができる。短所はそれらをまとめる仕組みやルールづくりが複雑であること。
 人口増や経済成長によって弱点がキャンセルできた時代と違い、現代では建築の意匠設計やそれに付随する業務から得られた見解だけでは、建築や都市にまつわる諸々の問題に立ち向かうことができないのかもしれません。そこで現代では、建築家(いわゆる意匠設計者)以外の人も建築や都市の諸問題に対して意見を述べることによって諸々の問題に立ち向かう必要があるのではないかと考えます。
 たとえば、市の公共工事において「有名な建築家が建物の設計をやります」というだけでは市民が納得しない可能性が高い。今の世論では、箱物公共工事は無駄ではないかと思われがちだからです。先日、谷口吉生氏が金沢で講演を行った際、講演に先立って金沢市長が金沢の都市のあゆみなどを説明され、「こういうわけで谷口先生が設計した建物をつくることを、市民の皆様方には納得していただきたい」ということを繰り返し述べておられました。公共工事にあたって、建築家の言葉だけで納得しない人々がいるという問題があるとすれば、他の人(ここでは市長)見解を述べて発言をする。このように、様々な立場の専門家が協力し合う行動が求められていると感じました。金沢市は、SANNAが設計した金沢21世紀美術館の事例でも有名です。その美術館をつくるにあたり、市民に対する様々な活動があったそうです*2。こうした公共工事の発注者である金沢市は、建築についてきちんした考えがあって、立派な仕事をしているように思えました。
 また、組織内(例えば建築設計事務所などの中)においても、それぞれの得意分野を合わせていこうとすることは、ひとつの有効な手段に思えます。NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」において、建築家伊東豊雄氏の事務所が紹介されていました。建築家伊東豊雄といえば名の知れた巨匠ですが、事務所内の設計業務においては所員それぞれが、様々なアイデアを出し合ったりして設計業務に取り組んでいるそうです。それぞれがプロフェッショナルとして協力し合うという業務形態であれば、それぞれが気持ちよく仕事に取り組める環境が大事。だから仕事関係で女の子に手を出しまくるような人は、ちょっとお引取り願うかもしれません。その人は有能な意匠設計者であるかもしれませんが、この場合組織のチームワークの方が重要。
 オランダの設計事務所OMAのドキュメントDVD*3を見たことがありまして、そこでも所員のアイデアが反映される様子や、協力する構造技術者がアイデアを提供する様子などが紹介されていました。そして、メディアに登場する所長のレム・コールハースは偶像である、という発言もありました。もちろん所長は重要な役割を果たしているはずですが、OMAの仕事全てが所長の発想から産まれたものだけをベースにした成果物というわけではない、という風に解釈しています。

建築家の偶像的なブランド価値

 以前、建築家のアイデアによる眼鏡が売り出されたことがニュースになったりしていました*4。また、手帳を売り出すときにも有名な建築家の名前が出てきたりしました*5。IT系の技術者の方が、クリストファー・アレグザンダーの建築理論、パタンランゲージを参考にしていたりするそうです*6
 これまで建築家と呼ばれてきた方々は、その能力を発揮することによって建物や都市に関する様々な問題を解決してきました。だから建築家は今でもある程度社会から信頼されていて、様々な場面でその名前には利用価値があるし、建築設計分野にはITという他分野の人からみても学ぶ価値のあるものが存在しているのだと考えます。
 これからの社会では様々な立場の人が、かつての建築家のように、それぞれがもつ専門的意見や見解を堂々と述べつつ、業務に取り組むようになるのではないかと考えます。すなわち、発注者、意匠設計者、構造設計者、施工者、コンストラクションマネージャーなどの専門家が協力し合って業務に取り組むようなイメージです。その思いから、本稿のタイトルを「建築家不要論ではなく建築家以外必要論」としました。そして、有能な意匠設計者いわゆる建築家ももちろん必要であり、社会に貢献できる存在だと考えます。