わかるという目標へ疾走する―『「わかる」とはどういうことか』

「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学 (ちくま新書)

「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学 (ちくま新書)

わかることは複雑な動作を伴なう

 わたしたちは日常生活のなかで、人に何かをわかってもらいたい、という場面に遭遇すると思います。また、勉強しなければならないとき、仕事や生活上の行動をすんなりと完了したいとき。自分の扱っている案件に対して何をしなければならないか、わかろうとして行動します。
 たとえば、同僚として一緒に仕事をする人物について、仕事を処理する能力を持ち合わせているかどうか、それがわからなければ安心して仕事に取り組むことができませんので、その人物の能力についてわかろうとします。人がわかろうという欲求は、とても強いものですから、間違った心象に基づく理解としての「わかる」であっても、人は何らかの納得をすると安心するものです。誰かが大声で悪口を言ったり恫喝をしていたとしたら、悪口を言われた側の人はたいへんな不利益を被る可能性があります。

 事実は自分という心がなくても発生し、存在し続ける客観的現象です。心象は心がとらえられる主観的現象です。(P.15)

 この例に限らず、事実と人が抱く想いとはある程度のずれが生じるものです。人が抱く想いについて、この本では「心象」と定義しています。事実と異なる方向に傾きがちな、人の想いについて理解し、正しくわかるための方法について考察しているのが、この本の全体的なテーマだと感じました。事実が「わかる」には時間がかかりますが、人間がもつ能力として確実に進行すると考えます。根拠のない悪口という事実が明らかになったとき、言った人の嘘や不誠実さが明らかになります。ですから、ちょっと不利に思えたとしても、人の悪口は言いたくないといつも考えています。じっさい、僕が人の悪口を言っている場面を見た人は少ないと思います。
 「第2章「わかる」ための手がかり」として、言葉という記号についての理解を挙げています。

 その記号の意味を問う、という自然な心の動きがなくなってしまいます。心から好奇心が失われ、心になまけぐせがつきます。もっとも危険な状態ですね。わかる、の原点は跡にも先にもまず、言葉の正確な意味理解です。ここをおろそかにしてはなりません。(P.58)

 著者の山鳥重さんは医師です。そこで、コレステロールを摂取すると健康に悪いという思い込みについて、人々の理解が医学的見地からかけ離れていることを紹介しています。これも、意味理解が簡単にはいかないという例です。

わかることによる人との信頼

 仕事において、意味理解をできていなくて、うまく処理できるか不安な場合があると思います。たとえば、顧客であったり、上司であったり、誰かが言葉で表現した書類やデータがあって、でもうまく意味理解できない。そのようなときは、わかったふりをして、意味もわからず取り組んだり、ただ部下に振り分けたりするよりも、「わからない」ということをまず認めることが大事ではないでしょうか。
 この本全体を使って語られている通り、「わかる」というプロセスは根本的に複雑なものです。ですから、「わかる」ために立ち止まって考える人を責めたりすることはできません。ましてや、信頼関係のできた同僚であれば、少し時間をかけて立ち止まるぐらいのことで、人を責めるという行動は発生しないと確信できます。そういう確信を持って行動していると、余計なストレスを回避することができたと感じています。適当に仕事を振って、あいつには言ってもわからないと愚痴を言うよりも気持ちがいいです。
 「わかる」というプロセスについて理解をすれば、人間環境をよくする手がかりにすることもできると考えました。他にも、自分が何かを勉強するときの工夫としても役立ちますし、自分が企画を説明したり、製品を設計したりするとき、わかりやすいかたちを考える手がかりにもなります。

 「わかったこと」は行為に移せる(P.203)
 「わかったこと」は応用出来る(P.208)

 「わかったこと」を実際の動作として行うこと、応用して新しい発見をすること。それは気持ちのよい体験です。応用として山鳥重さんが挙げていたのは、電気シェーバーは掃除機を使って掃除するときれいになるということです。広く社会に認められるようなことでなくても、このような発見は嬉しいものです。
 僕は電気シェーバーでなくT字カミソリを使います。以前使っていた二枚刃の古いタイプに比べ、掃除がしにくいです。五枚刃になって使い勝手は大幅に向上しましたが、刃が増えてその隙間に入るゴミが増えました。蛇口から出る水で洗おうとしても、水の流れる速度が弱すぎて隙間のゴミを取り除くことができません。そこで、洗面器に水を貯めて、その中で刃を素早く動かすと、刃の隙間にも水が流れるということを発見しました。
 わかるというプロセスは複雑ですが、そこを乗り越えたとき様々な面白さや人との信頼とが待っています。

科学とからみ合うクオリア―『脳と仮想』

脳と仮想

脳と仮想

 文庫版はこちら(link:asin:4101299528)。 引用ページ番号は単行本版によります。
 世の中には「仮想」なものがたくさんあります。「序章 サンタクロースは存在するか(P.7)」とあるような、サンタクロースの存在はたしかに仮想といえます。

 私たちが、「現実」と「仮想」と呼んでいるものたちのそのものの成り立ちについて考えることで、意識を持った不可思議な存在としてこの世界に投げ込まれている自分自身の生について、改めて振り返り、よって自らが生きる糧をとしようと思ったのである。(P.10)

 茂木さんがそう考えたとして、わたしたちはこれをどう扱えばよいのか、という疑問が思い浮かびました。私たちの多くは脳科学者ではないし、人気の著書著書をバブル的に*1たくさん著す有名作家ではないはずです。このような、難しくて理屈っぽいことが、いわゆる普通の人々にとって、生きる糧と成り得るのかという疑問です。
 かつて、科学というものの考え方が出現しました。この本では、科学のことをこう定義しています。

 科学は数値にできる客観的な物質の変化を扱う。クオリアに満ちた主観的な体験は、それを定量的なデータに翻訳して初めて科学の対象となる。その課程で、小林(秀雄)*2が指摘したように、私たちの体験のほとんどの部分は抜け落ちてしまう。主観的な体験そのものを直接扱うことはできないのである。(P.21)

 いまから100年ほど前の時代では、科学に深く関わって生きてきた人は少なかったのだと思います。科学によってもたらされたものは、産業革命による機械技術の発展、航海技術の発展による大航海時代、貿易による新たな経済の流れ、などです。この頃、多くの人は伝統的な農業中心の業務に従事しており、科学技術を直に体験して行為に反映させていたわけではないと思います。たとえば、坂本龍馬のように航海や貿易を扱えるのは、社会全体からみれば特別な人物でした。
 明治時代においても、科学などの学問を修める人というのは少数派で、多数の人はそう生きているわけではありません。したがって、ある種の反感を買う場合もあるのでしょう。

 ずっと、漱石が感情移入しているのは、主人公の「坊っちゃん」だとばかり思っていた。学士様で、『帝国文学』を読み、英文学の知識をひけらかず赤シャツは、どちらかといえば反感を受けるべき「敵方」の人物だと思っていた。
 しかし、そう思って考えて見れば、『坊っちゃん』の登場人物の中で、漱石その人に誰が一番近い客観的プロフィールを持つかと言えば、赤シャツに決まっている。(P.73)

 しかしながら、現在は人口の多くが工業やサービス業に従事していますし、第一次産業である農業や漁業も科学技術の恩恵により運営されています。全ての人が科学の存在に直に影響を受けていて、生活にとって切り離せないものとなっています。
 科学は、定量的なデータのみを扱うものとして、限界をもつものです。ですから、人の想像力・仮想・茂木さんのいう言葉でいう〈クオリア〉的な考えへ、私たちの考え方は変わってきているのではないでしょうか。それは科学批判ではありません。定量化して観察することから得られるものは、いまでも多大な価値を生み出すものです。
 しかしながら、地球規模での環境問題があります。離れた人との間でお金をやりとりする貿易や金融から、グローバルな経済危機が起こり得ます。問題の規模が大きいほど、データを観察するというアプローチでは対応が難しい面があります。必要なデータを集めることそれ自体に労力がかかるからです。
 ある分野の専門家一人がデータを集めたとしても、その範囲の知見だけで全体を解決するソリューションを導けるとは限りません。複数の専門家が知見を持ち寄って、わかりあう場面では、ある種の想像力をもってコミュニュケーションする必要があります。どんな頭のよい人でも、膨大なすべての専門分野について理解をすることは不可能ですから、相手を信頼して仮想的な知見を受け入れることも必要になります。
 ですから、これからの時代には、多くの人がある種の想像力―茂木さんのいう〈クオリア〉―を考えて日々の糧とすることも、十分にあり得ると感じました。それに対して、ある種の反感を持つ人もいるかもしれませんが、それもこれまでの社会を支えてきた立派な考え方であり、ひとつの価値ある体験です。反感に対して更に反発を重ねるのではなく、自ら知見のを深めて影響力を強め、お互いの協力に繋がるようなことをを根気よく続けていきたいと思いました。

*1:余談ですが、書籍バブルについて一連の話題は興味深かったです。|a.一個人|心に残った本||池上彰「伝える力」 http://www.ikkojin.net/blog/blog6/post-2.html |b.ウチダバブルの崩壊 (内田樹の研究室) http://blog.tatsuru.com/2010/08/13_0928.php |c.茂木健一郎 クオリア日記: 当事者として http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2010/08/post-be9f.html |d.書籍バブル論について〜私も当事者の感想を入れます- 勝間和代公式ブログ: 私的なことがらを記録しよう!! http://kazuyomugi.cocolog-nifty.com/private/2010/08/post-f4b3.html |e.「バブル」後記 (内田樹の研究室) http://blog.tatsuru.com/2010/08/14_1032.php

*2:追記

リスクや格差、その解決の前にありのまま―『希望格差社会』

希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く

希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く

 文庫版(link:asin:4480423087)。以下、引用ページ番号は単行本版によります。
 個人的には、冒頭はしがきの一節が気になりました。

 また、別の国民年金未納のフリーター(30代半ば、男性)に同じ質問をしたところ、今度は、「俺たちは、ろくなものを食って育ってないから、どうせ60歳ぐらいで死ぬんだ、だから掛けたって無駄だ」と答えが返ってきた。(P.4)

 これと、全く同じことを言う人に会ったことがあります。その人はフリーターではなくきちんとした会社で働いています。当時その人は30代半ばでした。彼自身が未来に希望を持っていないことは、あらゆる行動から明白でした。給料が減ったことや、周囲の人から信頼されていないのではないかという心配など、いまも様々な不満を抱えて生きているそうです。
 僕は、他人の生き方や考え方に口出しするのはおこがましいとは思っています。ただ、希望を捨ててしまうことの辛さ、怖さは広めたくないし、いろんな縁があった大切な仲間に対して、希望を捨てて欲しくないという想いがあります。
 この本で使われている格差社会という言葉は、いまでは日常的に言われる言葉となっています。「人類学者と実験者 - FDmountwill_millsの日記」で取り上げた、『生きる意味 (岩波新書)』など、格差社会、リスク社会にパラダイム・チェンジしたことについて書いた本はたくさん話題になりました。この辺りの社会問題は、今もメディアでもいろいろと報じられています。いま、そんな社会で少しでも安心していくにはどうしたらいいのでしょうか。
 専門的な仕事の能力を磨いたとしても、その仕事ができる人の数が市場によって限定されていて、一生その仕事で稼いでいける確証はないというのは確かです。しかしながら、能力が人より劣ると思われたくないがゆえに、人の悪口を言ったり恫喝をしたり、そんな行動に出てしまうと、周囲の人から信頼されなくなり、生きていく道が完全に断たれる可能性が高いです。このような行動をする人の気持ちについて述べた箇所があります。

…他人が自分と同じ不幸になることを願う気持ちを「エンビー型」と呼んで、このタイプの嫉妬が近年増えていると述べている(和田*1『幸せになる嫉妬 不幸になる嫉妬』)。目的合理的でない犯罪は、この「エンビー型」嫉妬を原動力にひきおこされる、つまり、「不幸の道連れ」なのである。人生を捨てている人に怖いものはない。死刑になる可能性があろうとも、刑務所に入れられようとも、意に介さないだろう。なぜなら、「努力しても報われない日常生活」こそが、彼らにとっての「獄」だからである。(P.209)

 いまの時代に「報われない努力」はたくさんあるとは思いますが、特に報われる可能性が低いものが「言うことを聞いておとなしく過ごす努力」ではないでしょうか。仕事の上で提案を通したり、難しい案件を複数処理してきた僕には「獄」というほどの状態には至っておりません。僕に対して「不幸の道連れ」を行なおうとする行動があれば、NPOや行政や同僚や人事の専門家と連携して、対処できます。仕事を通じて、様々な業界で活用できそうな能力を磨いたことで、リストラ後の人生設計を描くことは十分に可能です。
 僕がいまおかれている状況は、希望に満ちたものではないかもしれませんが、自分から諦めない限り、希望をもつための選択肢がなくなることはありません。

 私は、人々を不安に陥れ、暗い気分にさせるために、本書を執筆しているわけではない。明るい話を書けば社会が明るくなるなら、社会問題など何もなくなってしまうだろう。先の学生たちの感想にあるように、まず、現実に何が怒ったのか、起こりつつあるかを「ありのままに」見つめ、その現実が生じた原因、というよりも、おおざっぱな流れを私なりに解明したつもりである(P.225)

 という言葉もあります。社会を恨むことや、誰か個人を恨むことに囚われるよりも、まず「ありのまま」を見つめてみる。本の執筆に限らず、人生の希望についても「ありのまま」に見つめることがスタート地点になるような気がします。

*1:追記:精神科医和田秀樹