人の心などわかるはずがない−『こころの処方箋』

こころの処方箋 (新潮文庫)

こころの処方箋 (新潮文庫)

 文化庁長官も務めた心理学者の河合隼雄さんによるエッセイ集です。これが書かれた時代を反映してか、非行少年や受験戦争などの事例が目立ちます。一昔まえのマスコミの論調です。しかしながら、時代が変わっても人はこころを持って生きており、多少の事例の古さは気になりません。上に表示されているブログの登場回数などを見ても、現代のベストセラーにも劣らないほどよく読まれていることがわかります。

1.人の心などわかるはずがない(P.10)

 初っ端のエッセイのタイトルがこれです。「この点をもっと強調したいときは、一般の人は人の心がすぐわかると思っておられるが、人の心がいかにわからないかということを、確信をもって知っているところが、専門家の特徴である、などと言ったりする。(P.10)」とのことです。

 速断せずに期待しながら見ていることによって、今までわからなかった可能性が明らかになり、人間が変化してゆくことは素晴らしいことである。しかし、これは随分と心のエネルギーのいることで、簡単にはできることではない。むしろ「わかった」と思って決めつけてしまうほうが、よほど楽なのである。(P.13)

 本来、世界のあらゆることがらは複雑で理解しづらいものです。そこで専門家の知識とエネルギーが注がれることによって、新しい事柄が見えてくるというイメージと感じました。専門家の仕事とは、複雑なもの理解できないものに出会うことばかりだと、僕は考えています。単純な問題ならば、専門家でなくても解決できるからです。たとえば、新しい商品を設計するにあたってどんなものをつくればいいか考えることができる人がいないときこそ、専門家の手腕が問われます。河合隼雄さんの思考を綴ったこのエッセイ集は、複雑なものに相対する際の心構えを教えてくれるものでした。

11.己を殺して他人を殺す(P.50)
 …ある女性は、幼いときから他人の言うことをよく聞き、自分のやりたいことや言いたいことは常に後まわしにして、「己を殺して」生きてきた。…そのうちに自分が職場であまり好かれておらず、しかも、まったく驚いたことに、「勝手者」だという評判がたっていることを知ったのである。…(P.50)
 …これは、彼女のなかで殺されたものが、生き返ってきて、復讐をしているようなもので、こんなときは、見事に他人を殺すことをするものである。彼女の一言が、盛り上がってきた一座の気分を害すとか、他人の好意を無にするとか、友人の窮状を見殺しにするとか、いろいろなことをやってくれるのである。…(P.52)

 このエッセイ集のなかでも、特に激しい言葉が使われていた箇所です。自分の言いたいことが言えないということは、これほどまでに激しい言葉で表されるほどのことにもなるようです。
 人の言うことをよく聞く人が評価されることは、20世紀の職場において、時代の空気として妥当だったと考えます。それをそのまま「わかった」と受け入れたとしたら、このような考えには至らなかったのではないでしょうか。

29.生まれ変わるためには死なねばならない
 課長ともなれば、自分の生き方とは異なる人間も部下にもち、もっと広い立場から全体的にものを見ることが必要である。この「自分を変える」ことが非常に苦しいので、仕事が面白くないとか、死にたいとか、の気持ちが出てくるのである。(P.125)

 「自分を変える」ことは、時間がかかりますし、どうすればよいかわからないことが多いです。人の言うことを聞くという行動が他の人を殺すのであれば、他人を攻撃するよりも自分を変えたほうを選びたいです。そんな象徴的死を受け入れることが必要な場面に出会ったら、そのときこそ己を殺して望みたいものです。