ビジネス・ツイッター 〈ウチ〉的ムードの会話へ社会転換

ビジネス・ツイッター

ビジネス・ツイッター

 FMとやまアナウンサー、上野紋さんのブログを見て興味を持ちました(link:http://www.fmtoyama.co.jp/blog/ueno/?p=866)。最近では、FMとやまのラジオをつけると、毎日ツイッターの話題をしています(link:RADIOJAM (@radiojam827) | Twitter)。

ボリュームたっぷりの事例紹介がメイン

 この本の特徴は、事実として認められることを淡々とドライに書き連ねるている感じです。著者の考察もそれなりに述べられているのですが、個人的意見や感情のバイアス抜きににツイッターというものを理解してみたいと思ったときは、この本を読むのがベストです。
 438ベージとボリュームたっぷりの本で、どの事例も興味深いです。全部を詳細に読むと時間がかかってしまうので、ツイッターやウェブを利用するにあたって、何か考えさせられる出来事があったときに参照して読んでみるという形で、手元に置きたい本です。
 ツイッター誕生までの歴史的経緯から始まり、主にアメリカのビジネスに関係する場で個人と企業とが、気軽にメッセージをやりとりする事例が多数紹介されています。しかしながら、この本で述べられているのは、決して企業としての利用に限られた話ではありません。むしろ〈個としての人間〉の重要性が伝わってきます。それが「第11章 ツイッターと個人ブランドづくり」という章のタイトルなどに表れています。

英語以外の言語で最もツイートが多いのは日本

 面白い本でしたが、読んでいて考えさせられたのは、こういう気軽なやりとりで人と企業が関わることはそんなに驚くようなことなのか、ということです。言い換えれば、人間が人間として行動して社会や企業と関わっていくことは、むしろ当たり前のことではないかと思いました。
 企業や有名人などに対して、気軽に自分の考えなどを発表することは、以前から日本で行われていたように思います。気軽すぎるがゆえに、いわゆる匿名の誹謗中傷にもなりがちです*1 *2。それが日本の特徴であり、日本語が英語以外の言語で最もツイートが多いことの要因となっているのかもしれません。「社会の中にあって自立した個人主義」という思想があるのが多くの西洋社会とすれば「〈ウチ〉同士の世間的つながり」があるのが日本社会です。だから、有名人や起業のツイッターアカウントに向かって、〈ウチ〉の仲間と変わらない気軽な会話をすることは、日本人にとってはアメリカ人よりもなじみやすかったのだと考えます。

テレビに出ている有名人や企業はどんな存在なのか

 有名人に対する意識について『ゴーマニズム宣言〈1〉 (幻冬舎文庫)』に出てきた「洋平くん」の話を思い出しました。ある田舎の家に植木等さんがきたとき、洋平くんという子供が土下座してしまったという内容です*3。テレビに出ている人は偉い人という意識が、現代よりもはるかに強い時代がありました。当時は有名人とメッセージをする機会を得ることが現代よりも難しいため、有名人は〈ウチ〉の仲間としての人間関係からは一線を画していたと考えます。そんな時代では、有名人の誹謗中傷は、あまり大きな問題に発展しなかったのかもしれません。
 テレビやメディアに登場する大企業も偉い存在であって、〈個としての人間〉から一線を画す存在として認識されていたように思います。規模の大きい会社と下請け仕事のやりとりをするとき「合理的な理由がなくても相手の言うことは聞かなければならない」という考えをもっている人は、年配の人にやや多いと感じます。「会社の仕事において個人の感情は出してはいけない」という考えをもつ人もいました。平和に経済成長をしていた時代では、〈個としての人間〉による判断を無視したとしても、割と簡単に成果と利益を得ることができるので、あまり問題にはならなかったのかもしれません。しかしながら、高度な知識労働が求められる現代において、このような仕事のやりとりをすれば、成果を得ることが難しいだけでなく、人権侵害や偽装など非合理的で悪質な行動が行われる可能性さえあると考えます。
 『ビジネス・ツイッター』は、個人の発揮する力が社会を動かす可能性を持ちえる時代―ドラッカーが言うところの〈知識労働社会〉*4―においてツイッターは面白いことが起こる、と認識させられる本でした。アメリカでもたくさんの事例があるのだから、〈ウチ〉同士の親密な付き合いに長けた日本では更に面白いことが起きるのかもしれません。