末流意識を感じない自分の立場から

悩む力 (集英社新書 444C)

悩む力 (集英社新書 444C)

 2008年の新書ベストセラーでですが、個人的にはどこがいいのか最初よくわかりませんでした。いま読み返してみると少し共感できます。最近その考えがずいぶん変わるような出来事があったからです。
 僕は昔から、仕事の上で教えて欲しいと言われることがとても多いです。以前は、教える相手は主に年下から同世代だったのですが、ここ最近ではかなり年上の人からそう言われる事が急に増えました。その体験を踏まえながら読むと、『悩む力』は僕よりも年上の方々の琴線に触れる本だったと考えます。

 いつまでも古い考え方にこだわっていたら取り残されてしまいます。言ってみれば、「生か、死か」ではなく「変化するか、死か」ということでしょう。(P.14 はじめに)

 ずいぶん怖い言葉が並んでいます。そこまで言わなくたって解るよ、というのが僕の感じ方。しかし、僕より上の世代の人には、ここまで言わないと伝わらない場合があるのかもしれません。先日、僕は変化をに対して恐れている人に対して、その人たちを励ます意味で、「このままでは滅ぶ」とはっきり言いました。少し前ならば、図星であることを認めつつも「生意気なことを言うな」という反応が返ってきたのかもしれませんが、最近では通用するようになってきたようです。その後でこの本を読むと、変化を恐がる人たちの悩みが少し理解できるようになりました。
 現代の世の中は、昔の日本で言うと外国から軍艦が来た時代、幕末〜明治に似た状況だと考えています。軍艦、ひいては西欧列強の近代的軍隊に対し、刀や槍で戦うのはそもそも分が悪いです。それで、「変化するか、死か」です。僕は幸いにして、これからの時代を生きるための思想や知識を、紆余曲折を経て獲得しつつある段階かなと思っています。

末流意識という「あきらめ」

 …時代を創造した人たちのような「何が何でも生き抜いてやる」といった前向きな気持ちはあまり生まれません。そして、「頑張っても何も変わらないさ」的に、どこか虚無的になりがちです。前者を、「創始者意識」と呼ぶとすれば、後者のほうは「末流意識」とでも呼ぶことができるでしょうか。(P.52 世の中全て「金」なのか)

 経験上、年上の方々の一部に「そんなことやらなくていい」という怯えた反応を見ることは多いです。
 この本では全体を通して、夏目漱石マックス・ウェーバーの思想を引き合いに出しつつ進行していきます。夏目漱石の思想は以前の記事<『世間は社会に通用するか - FDmountwill_millsの日記>で紹介した『「世間」とは何か』にも登場していました。その思想は自分の人生と重なる部分は少ないです。現代では、それと違う行動ができるからです。一方、「龍馬伝」に描かれる新しい時代に直面した坂本龍馬や、近代的な軍隊の技術をいちから学ぶ機会を得た「坂の上の雲」に描かれる秋山兄弟、近代文学のはじまりに直面した正岡子規などはかなり重なる部分を感じます。夏目漱石にしても、「坂の上の雲」に度々登場した青春時代ならば重なる部分を感じます。

個人主義 自由恋愛 など

 この本では、年配の人にとってが受け入れやすい思想が述べられています。僕の立場からみればえこひいきとも感じます。例えばデカルトの「我思う、ゆえに我あり」などに表される個人主義について、年配の人の一部には「自己チュー」といって下の世代を非難することがときどきあるわけですが、日本においては「世間」とのしがらみのためか、やはり個人主義を恐れるような人も多いのでしょう。そういう考えを抱く人にの味方をして、安心させようとする論調が多いです。
 例えば、近年では一般的なものと考えられる自由恋愛について”「自由」が愛を不毛にする(P.134)”などでちょっとした疑問が投げかけられます。恋愛、結婚にあたり「誰々の家の人の紹介で…」と最初に思いつくような人も、現代にいないわけではありません。”人は「自由」から逃げたがる (P.101)”という考え方と重なる人も、世の中には多いのだと感じました。

 人によっては、「他者とのかかわりは表面的にしのぎ、本当の自分は隠しておく」といった方法が取れるかもしれません。しかし、それができずに完全篭城する人もいるでしょう。つっ走っていく自我を止められず、さりとて誰かに救いを求めることもできず、悲鳴を上げたくなっている人もいるのではないでしょうか。(P.36 「私」とは何者か)

 個人主義や自由をうまく受け入れることができないために苦しみ、自分の存在が脅かされるのではないかと考えている人たち。自分が本当に見たこと、考えたことが言えない人の苦しみ、しっかり受け止めたいと考えています。

「次の段階」の可能性として

 職場のなかで、昨日まで頑張っていたのに、突然出てこなくなってしまう人が多くなってはいないでしょうか。…そういう人が就いていた仕事は、マニュアル労働的な仕事よりも、サービス業的な仕事であることのほうが多いのではないでしょうか。(P.124 何のために「働く」のか)

人とのコミュニュケーションには形がなく、しかも形がなく、しかも、ケースバイケースであるため、かなり過酷です。(P.125 何のために「働く」のか)

しかし、だからこそ、私は可能性も大きいと言いたいのです。人とのコミュニュケーションの方法は無限にあり、そこから自分が何かをもらえる可能性も無限にあると思います。(P127. 何のために「働く」のか)

 この本は、乱暴に言うと「頭の固いおじさんの愚痴」を代弁した記述が大半ですが、ところどころに明確な希望を主張しているのが特徴。人との触れ合いから生まれる「相互承認」だと思います。
 僕は長い間コミュニュケーションに関わる仕事を経験しました。一緒に仕事をしていた人のなかには、突然頑張れなくなった人もいましたし、僕自身も危うい場面がありました。商品開発にしても建築設計にしても、形があるものを作る仕事ではありますが、単に図面や書類をつくるだけでなく、コミュニュケーションが関わってくることが多く、僕はその部分を求められることが多かったです。その経験を通して、「こうして話すことはいいことだ」「教えて欲しい」「感謝している」「一緒に考えよう」という他者からの相互承認のアテンションを実感しました。
 今後、より相互承認を得ていく上で、自分と違う立場にある人がどう考えているか、その人たちにどう言えば納得してもらえるのか、それを考える上で参考になる本でした。