世間は社会に通用するか

「世間」とは何か (講談社現代新書)

「世間」とは何か (講談社現代新書)

 日本の思想の変遷を「世間」を軸にして辿る内容です。「世間」は日本に独特のものであり、「社会」とは違うことがが最初に強調して述べられます。

 西欧では社会というとき、個人が前提となる。個人は譲り渡すことのできない尊厳をもっているとされており、その個人が集まって社会をつくるとみなされている。したがって、個人の意思に基づいてその社会のあり方も決まるのであって、社会をつくりあげている最終的な単位として個人があるとされている。日本ではいまだ個人に尊厳があるということは十分に認められているわけではない。しかも世間は個人の意思でそのあり方も決まるとは考えられていない。(P.14 序章「世間」とは何か)

 実は、僕が卒業論文修士論文*1を書いたとき、生涯に渡って「個人の尊厳」を尊重した生活のための建築計画がテーマでした。それが十分に認められていないのでは、研究の意義が半減してしまいます。これは僕にとって由々しき事態です。

 日本人にとって周囲と折り合ってゆける限りで世間の中で生きる方が、競争社会の中で生きるよりは生きやすいのである。しかしこのような人間関係の中で生きていると、個人同士が付き会うときでも周囲を気にし、闊達とはいえない雰囲気を持っていることになってしまう。そのことは外国人からみるとよく解るらしい。(P.23 序章 「世間」とは何か)

 ぬるま湯感情*2ですね。わかります。振り返って考えれば、僕は折り合いを考えて同僚を責めるような言い方をしないよう気をつけると同時に、よりよい設計の製品をつくるために競争社会的な生き方もしてきたと思っています。うまくいかないときは、その辺りにギャップが生じていたような気がします。
 この本の章立ては以下の通り。

概要

序章「世間」とは何か
第一章 「世間」はどのように捉えられてきたのか
第二章 隠者兼好の世間
第三章 真宗教団における「世間」−世間とその弟子たち−
第四章 「色」と「金」の世の中−西鶴への視座ー
第五章 なぜ漱石は読み継がれてきたのか−明治以降の「世間」と「個人」
第六章 荷風と光晴のヨーロッパ

 第一章では、和歌と仏教で扱われた「世間」についての論考です。和歌では「世間」は無常で個人の力の及ばないものと捉えられており、仏教での世間はそれと違う意味ではあったにも関わらず、無常という概念を覆すことはなかったとの結論でした。第二章の吉田兼好徒然草における論考では、吉田兼好が「世間」から離れた隠者としての視点があったと述べられています。第三章の浄土真宗は、それまでの「世間」に対する考えを覆す面もありました。
 第四章の井原西鶴の論考では、江戸時代の町人が貨幣経済の発展のもと、商業活動の重視や自由恋愛を貫く姿勢など、それまでの「世間」に囚われない活動をし始めていることが述べられます。この辺り、イタリアのルネスサンスにおける変化とも似ていると思い、興味深く読みました。
 大きなインパクトがあったのはやはり明治以降でした。第五章、第六章において、西洋の近代的思想を受け入れようとしながらも日本の世間とのギャップに悩む、夏目漱石永井荷風金子光晴の姿が描かれます。世間から一定の距離を置かないと成立し得ないという点で、吉田兼好の隠者的な姿勢と通じるものがあると感じます。

さて現代

 どうやら、日本では「世間」に囚われつつ生きるしかなかったようです。個人の考えで生きようとするならば、吉田兼好のように隠者的な立場にならないといけなかったのかもしれません。ただ、この本は15年前の本なので、現代社会とのギャップを少し感じます。
 現代の世の中で仕事を行う際、周囲の世間の中だけの理屈で「うちの世間で偉い人が正しいと言ったから正しいんだ」みたいなことは通用せず、社会として見た場合に正しいやり方でなくてはなりません。間違ったことを押し通せば、不正や偽装になります。それが近年いわれるコンプライアンスかと思います。また、現在はグローバル経済のため、世界全体といつでも対峙している状況ですし、ISOなども広まっています。
 個人が活動して考えたことを主張するにあたり、吉田兼好のような隠者の姿勢をとる必要は無くなっていると感じます。理由は、いまこの目の前にあるブログやツイッターです。沢山の人が、普通に世間と関わると並行して、個人的な考えを書いています。
 個人の考えは、それ自体が仕事をする上での武器にもなり得ます。知識労働社会では、優れたアイデアや専門的技能を発揮することが大事です。20世紀の日本企業のように終身雇用でお互い世間としてうまくやっていこうというのは、馴れ合い的で現代社会に合わなくなっていくと感じます。
 現代は、長きに渡って続いていた日本の「世間」が、かなり変化しようとしているのかもしれません。パーソナルブランドを確立して知識労働で生きていこうとする人が活躍しそうです。昔の「世間」に慣れた人にとっては、まだうまく適応できない場合もありそうなので、反発はまだまだありそうです。その反発を克服してお互い協力し合うために、対抗する相手である「世間」を理解しておくことは有意義と改めて思いました。